議論記録 老人と×

 痴呆症は「近代的個人としての死」という話とか。

http://d.hatena.ne.jp/G-neco/20100314

G-necoさん
「自分の力で生きる」というのが僕の人生方針と言ったけど、じゃあ自分の力で生きていけなくなったら「僕」は死ぬのかというとそうではない。そこで他人に助けられる中で幸せを見つけていけばよい。ただ、僕は(こういう言い方は良くないしもっと適切な表現があるはずだが)他人に迷惑をかけてまで生きることには(申し訳なさすぎて)耐えられないからそういう選択は避けたい。ここにも恐怖の根があるような気がする。しかしそれは単に僕の個人的な性格。だからここはあくまで僕個人の主義・スタンスを述べている色が濃い。

僕は人生方針を先のように挙げたけど、それは以上のように一般論とは違う話として言ったわけだね。そしてこう見ると僕が感じる恐怖の原因は僕自身の内部にあったわけだ。これで僕が(たぶん)他の人より大きな恐怖を感じる理由も説明できたのではないだろうか。

…などと話を締めにかかっているがまだこの問題に決着がついたとは思わない。この先また考えが変わるかもしれないし、新しい要因が見つかるかもしれない。僕自身としても全てを説明しきれたとは思えない。しかしとりあえず今回はここまで進展したということで。


lough-maker 2010/03/15 00:44
 んー、死は比喩のつもりでした。大雑把な理解でしかないのですが、理性・自己・交換能力といったものは、近代的な個人の持つべき「属性」であり、それが認知症によって失われたら、近代的な視野からそのヒトを見れば、もはや個人と認識するためのタグが残っていない。つまり、死者や非人間的動物と変わらない。そういう意味です。

 僕自身、祖母が認知症で、この話はずっと疑問というか、悩んでいます。とりあえず今回のレスポンス等は、なるべく一般性を持たせて考えてるところです。

 さて、当然、人間はそういう個人主義的な認識を持つと同時に、命へのよりウェットな認識を持っているわけで。おばあさんは猫さんにとっては「死」んでなんかいないし、実際生きている。そして猫さんが敬愛を注ぐ対象として存在意義を持っている。
 けど今のおばあさんは、あなたが過去愛した「おばあさん」とは違う。姿かたちは同じだとしても、精神は別物。何というか、感覚と事実が乖離して軋んでいる。その苦しさを、僕は祖母を見るたびに思います。

 祖母にも確かに「心」はあります。しかし、今ある「心」を僕はかつて祖母が正常だった頃に見ていたのか? 僕にはわからない。僕が祖母だと思っていたのは、彼女の外部にすぎず、「心」のような『想像するしかないもの』ではないように感じます。
 だから結局、猫さんの言う「心がある」云々は、単純に命だから大切だというもので、それが「祖母としての生」かという問題を避けている気がしますね。
 祖母は変わってしまった。けど、変わらない部分もある。僕がこの時この瞬間、知覚しうるものでは全くの別人だけれど、それでも振り返れば彼女は僕の恩人であり、決して無下にはできないと感じています。報恩意識でしょうか……。

lough-maker 2010/03/15 00:57
 ところで猫さんにとって「めいわく」って何ですか?
僕は東大や灘中に受かるに当たって、一人ずつ落としたはずですし、東大特進の特待で甘い汁吸ってきましたし、それに限らず確実に誰かに厄介をかけている。選択するしないに関わらず、誰かにとって既に「めいわく」です。
 そりゃ敢えて他人に害を与える気は僕も無い。けれど僕が存在することで誰かが不快になっている。悪意が直接僕に飛んでこなくとも。別にそんなこと言ったって、何もしないですけどね、身の周りのこと以外。
 僕は偽善でしょうかね? ご意見お待ちしています。

G-neco 2010/03/15 23:13
(どんどん文体が素のフランクなものになっていっているけどご容赦を。)

>問題を避けている
確かに。ラフくんが個人・人間と言ったのはアイデンティティとしての意味を持たせていたわけだね。あれだね、ここでの「死」とはアイデンティティの崩壊とかそういう意味だね。僕は人権とかその辺りのことを考えちゃって、「生命の尊厳」をもって「生きている」と言ったけど、ラフくんは「個人の尊厳」をもって生死を(比喩的に)考えていたのか。そうか、だから「近代的な意味での」ということなのか。うん…そうだ、それは当然思いついてしかるべきテーマだった。しかしちょっと難しいね…。そういった形でのアイデンティティ喪失というのは考えたことがなかった。ちょっとすぐには言うべきことが出てこない。申し訳ない。

>「めいわく」って何ですか?
上で「迷惑」と言ったけどこれは僕の意図を正確に表せていないのでもっと必要十分な言葉に直したいんだけどね。大まかには、一般的な、誰かに何かをしてもらったときに「すまないねえ」というあの気持ちを感じてしまうということを言いたかった。
>僕は偽善でしょうかね?
少なくとも受験で「他人を蹴落す」とか中堅受験者層から「甘い汁を吸う」とかいうことが「めいわく」であるとは思いませんね。「周りの受験生はみんな敵」とかも同じです。僕はそういう見方は妥当でないと考えます。
僕は受験とはマラソンのようなものだと思っていますが、マラソンで入賞する人は「他人を蹴落して勝った」と言えるでしょうか?その人はそれなりの対価を支払ってきたはずです。それは敗者から奪ったものではなく自分で積み上げてきたもののはずです。
僕は現役のとき落ちているのでこう言いますが、僕は合格者に「落とされた」とは思いませんし、そう思うのは不健全です。単純に積み上げてきたものの差であると僕は考えました。
受験においては、胴元がいて、ルールがあって、みな同じ問題(しかも学力だけが測られる)を解くのですから、スポーツマン精神のように素直に実力の差が結果であると認めるべきです。たとえ責められるとしてもそれはルールや審判の判定であるはずでしょう。
熱くなっちゃったかな。まあ、「落とした」とかは考えてほしくないな、と言いたかった。しかし、上ではまるで受験が完全に公平であるとでも言うかのように書いちゃったけど、まだそこには考慮すべき要素はあるよね。ここでそこにまで触れるつもりはないけど。
受験以外ではどうだろう。「低賃金労働者から搾取することで現在の豊かな生活が成り立っている」云々の話も「めいわく」に関わってくるだろうね。こういうのって倫理学とか哲学が何らかの答えを出してそうなもんだけど。資本主義社会の構造が悪いだけだとか言って済ませるのは逃げてるみたいだしなあ。「めいわく」とは違うかもしれないけど、「飽食の日本に住んでいてアフリカとかの貧困に罪悪感を抱く」とかいった話も似たようなもんだよね。そこで感じる「罪」の意識とは一体何なのか?我々は「罪」を感じるべきなのか?「罪」であったとすれば我々はどうふるまうべきか?疑問は出ても答えが出ない。まだまだ勉強不足か。とりあえず、そういったことを偽善と言っちゃうのはあまりにもあんまりだという気はしますけど。

lough-maker 2010/03/17 08:39
>アイデンティティの崩壊
 なるほど、その表現が確かに的確かもしれません。同一ではなくなるという。
 僕の場合、死には3段階を考えています。理性的な判断力を奪われる「精神の死」、言わずもがな「身体の死」、忘れ去られる「存在の死」という感じで。
 しかし何をもって「精神の死」とみなすかは正直なんとも。「常識的に考えて」人を死んでるとか言うのは明らかに暴力ですからね……。「あの世に肩まで漬かってる状態」とか言うのが適当なのか?とか考えてたりします。『死』と言い切るには、吟味不足です。

>すまないねえ
 んー、罪悪・感謝・報恩責任を感じることを避ける、というのはどうなのでしょう。対価を何らかの形で支払わねばならない(計量不可能だとしても)という思いはありますし、親や先輩などからは、返せないほどの恩を享けたとは思うのですが……。
僕自身は享けた分を誰か違う人、社会などに還元できればなぁと考えています。そこから「自分で生きる」という方向へは行かないですね。

>受験
 猫さんの受験観には賛成です。ただ、それに同意しない「不健全な」人間がいて、僕を逆恨むこともある。
 それに直面した時、「迷惑をかけない」生き方はジレンマに陥るんじゃないか?ということです。迷惑は相手の感覚次第ですから、それに生き方を委ねるのは主体的なあり方じゃないだろうと。「常識的迷惑」なんてのを想定して、相手の不徳を否定して切り抜けるのも危なっかしいので、僕はやりたくないですね。
 とりあえず受験とマラソンの違うところの一つは、受験は強制参加であるところでしょう。少なくとも完全な自由意志で選ぶものではない。「受験なんてしたくなけりゃしなけりゃいい」という言説は、少なくとも気がついたら灘中にいた類の人間にとっては暴言です。経済的自立すら出来ていないのに選択の全面的自由があるわけないでしょうって話で。選べたところで学部と大学まで。よっぽど意識が高く、自信と能力があり、理解のある親を持った人間じゃなければ、そうそう受験を避けれるわけもない。
 まぁマラソンだってプロアスリートなんかなら「気がついたら走っててそれしかなかったのさ」って人もいるでしょうけど、東京とかホノルル走ってる一般参加者なんか自由意志ですから。自由って何だって議論はおいといて、です。
 まぁいずれ訪れることが分かっている受験に対して、十分な準備をしなかったのは愚なわけですし、確かにある程度よーいドンでやっちゃいるんですがね。見方を変えれば「愚とみなされる」だけとも思えなくはない。受験を運命だと思って宗教的な心地でやるってかなきゃならん。……僕自身、何がいいたいかはよくわかってないですが。

>搾取構造
 まぁ確かに搾取は僕が意図的にやったわけじゃないし、僕がやらんでも誰かやってたわけで、構造を変える力も一受験生の僕には無かった。僕以外が僕を弾劾するのは不当と言っていいw
 資本主義的な搾取の構造の受益者であるという自覚を持ってしまった以上、構造に対抗できなくても加担しているわけで。それはまぁ帝国軍の兵隊のようなものでいたし方がないといえばいいんですが、僕が罪悪感を持つのも勝手なわけです。
 どうせ完全にフェアにすることはできないのですが、とりあえずわずかでもフィードバックできるようにかなり詳細で本格的な合格体験記(という名の大学受験観)を書きはしたのですがね。出すところが出すところですから、どれほどの効果があるやら。

 とりあえず「責任」や「罪悪感」については僕もしっかり勉強して、もう少し明確に語れるようでないと……まとまりが悪くもうしわけない。