努力について(暫定解)

 林センセというこのネタを一番聞きたかった相手に昨日質問してきました。(彼は僕が知ってる限り一番才能に傾いた人物で、「傾奇者」的な生き方をしてる方です。慶次度が高いというか)
「東大受験は気合でどうにかなるレベルなんだが、そこから先は血の滲む努力がいる領域が広がっていて、それに気づかなかったのが痛恨だった」
 ってのが彼の実感としてあるようで、僕にも同じ匂いを感じるといっていました。まぁ同感ですがw
「結局イチローが一番努力しているってあたりが真理」
 だとか、こうして見れば単純なことなのですが、彼ほどの才能をしてそう言うんだよなぁ、って思うと説得力があります。僕とは桁違いにキレる人なんですが。

「努力する才能」という言葉は僕が一番嫌い、というか聞きたくない・信じたくない言葉ですが、どうもそういうところはあるのかもっしれません。僕は自分の中にその種が残っていることをただひたすら祈っています。けど、ついにこの時期に至ってなお、それが芽を出さなかった(あくまで自分の感覚ですが)ということは……?

 林氏の在り方は「考えうる範囲だけ考える」ということだそうで(去年教わった「エポケー」というか)僕の色々な疑念はいわゆるわかりえないものなんでしょう。そういうことを考えてるから暇人なんですね。


 そういえば以前から僕は東大を選んだのではなく、東大しか選べなかったんじゃないか?って感じていたのですが、だとしたらなぜなのかは茫漠としてつかめなかったのですが、会話の中で出てきた「親がいるから」って言葉に実は象徴されるのかなと気づきました。

 親=初期条件の代表というか。僕が生きてきた環境も、思考の基本回路も、身体的特質も、親という存在を抜きにして語れるはずがなく。僕個人の自由意志とは別に、状況のほぼ全ては親をはじめとするこれまでの「歴史」の上にあるのだろうな、と。(経済的に)東大に行けることも、いろいろなことが。
 いずれ子が出来た時、僕の位置する状況は次世代の存在を中心に回るんでしょう。日本では最新の世代を中心に呼称も変動し、僕は「父」という役割を逃れえなくなる。

 ただその置かれた状況は必ずしも「抑圧」でも「不自由」でもないんじゃないか?と思います。人間は孤独な魂であると同時に、群をなす生物種でもあって。近代の個人主義が教えてきた至高の「自由な自己実現」だけが、人が生まれてきた意義じゃない。
 全てを俯瞰しうる理に憧れる少年であると同時に、僕が祖を持つ動物であるということは逃れられず、時に「絶対的」に似た視点を持ちながら、相対的な存在であるしかない。

 何が言いたいっていうと、「クレヨンしんちゃん」のひろしのような幸福の境地がもう少しわかってきたのかな、と。アンカーになりえるほどの超越性を持たない者として、長い鎖の中の一つの「環」として、そこに静かに落ち着けることの意義というか……。たぶん、こういうのは、時代遅れでありふれてて、きょうび流行らないんでしょうけどね。

 何かわけがわからなくなったけど、ただ単純にのしかかる責任とか、そういうのではない意味で、「親がいるから」という観点は必要だな、と直感したといいますか。それは僕自身の自己実現という個人的なものとはまた別に、存在する理想なのかな? どうなんだろう。ただどこかで、忘れそうになっているものだろうな、と。


 努力がどうとか色々と状況の必然性とか、色々悩んだりしてたけど、とりあえずいい感じに収まりそうです。たぶん一生かけて考えることになるんで、ちょくちょく思いだしては考えていこうと思います。




 大体、語るべき人と語るべきことを話したような気がするので、そろそろ3週間、不安要素つぶしに進んでいきたいと思います。本番それ自体への不安や心配、緊張はナンセンスな気がするんで忘れて。

 不運だけの敗北は無いと林先生はいいました。まぁ、穴がある限り頑張って押さえていかないと。