ここ最近長電話が多いぜ

図書委の先輩であり、受験生のぽるさんと長電話。声を聞くのは1年ぶりだなぁ、とか。
ここ最近の自分の傾向にならって死亡フラグ三昧の会話でしたが、彼は彼なりに予備校生活を頑張って生きてきたよ、なんて話をし、自分は自分で色々と人生観(人生もなんかバラバラな出来事が積もり積もって臨界点に達したとき、パラダイムシフトっぽい感じで転換が起こるんかな、みたいな話)とか喋ったりしてました。恋愛観なんかも言ってたような(昨日書いたことだけど。美に関しては成果そのものより過程だけを考慮する方がフェアだろうし間違いも少ないだろうなぁ、みたいな話とかもすりゃよかったかも)

浪人は勉強しとけ、みたいな考え方が僕は嫌いです。たいがい、侮蔑的・嘲笑的なニュアンスで語られますし。自分の侮蔑が自分に跳ね返らないように頑張って勉強する人もいますが、まぁ僕は絶対その手法を採用したくないし、これまでもしそうになる自分を戒めてきました。
憐れみ、というと違うんですが、いや、あるのかもしれないです。ただそれは失敗したことが気の毒なのではなく、ステレオタイプでくくられて嘲笑され、敗者として謂われのない軽蔑を受ける(まぁ昔、周囲でそういう態度を取った人がいたのがすごくショックで、大袈裟すぎるかもしれません)のが気の毒だと思ってます。
……自分以外の大勢が敵視しているものに対し、僕は自分まであえて敵視する必要ないし、積極的に味方までしないにせよ、ちょっとはマシなところを探したいなぁ、と思うのです。
座右の銘と聞かれたらいつも困るんですが、あるとしたら、父が何度も言ってきた「キリストは誰もが避けて通る道端の腐った犬の死骸に寄り添い、まじまじと見つめて『なんて綺麗な歯だ』と言った」というエピソードがそれに当たるのかもしれません。


まぁ自分で言ってて案外、弁護士向きの性格なんかも。まぁ俺がやらんでもよさそうだし、父から聞く限り司法試験が合わなさそうなので、あまりする気はないですが、自分という弁護士は自分しかいないとか考えれば、特に関係ないかもしれませんね。職業選択に自分のアイデンティティを求めるのに、どこまでの意味があるやら。何をしてても自分は自分……かな?
まぁ自分しかできないって思える仕事が一番なんですが、弁護士って法律って武器を装備したフリーの傭兵みたいなものだし、色々な仕事をやろうと思えばできる職業ですね。仕事と職業を一緒くたに考えちゃダメですな。自己納得。