あとすこしか

 やや粗放的な文章になってるようです


 授業、3週間程度しか無いんだなぁ。寂しいな

 色々と文句を垂れたりしてたけど、やっぱり常識的に考えて恵まれた環境で勉強してきたんだろう。

 今日は勉強なし。なんか再起動遅れてる。模試が当座なくなったから何か課題を設定しないとな。センターとか英単語をコツコツと。あとリスニングとかやってこうかなぁ(リスニングを開始するのには相当な回数の「やるぞ!」が必要です、相変わらず)


 日本史で「身分制や共同体から解放された結果僕らは自分のいるべき場所を探さなくてはならなくなった」とか、「『何にだってなれる』という輝かしい言葉が、『何かにならなくてはいけない』という強制になる。ドリームを追いかけることばかりがほめそやされるけど、失敗した時には自分を責めるしかない」


 河合の後の暴走とテーマが同じような気がするけど。人生はTake A Riskだよ!的な積極的生き方は現状の僕には馴染んでいないようで。私に本質などなく、私が下す選択、それ自体が私の「実存」を規定していくというのが実存主義の考え方でしたか。

 バイ川曰く「"何者か"にならなくてはいけない」という強迫観念が現代人には強いそうです(尾崎豊が「あと何度自分自身、卒業すれば、本当の自分にたどり着けるのだろう?」とか歌ってるのを指摘していたような)

 この"何者か"に対する想像力の貧困や、強迫観念を人に植えつける構造が河合の現代文で問題になっていたのでしょう。しかし、"何者か"という表現はテキトーに見えて上手ですね。少なくともそれは、語るに足る社会的価値を持っていないといけない、ということなのでしょう。なんか懐かしい感じですね。自己紹介の度に苦しんでいた高2の頃を思いだします。

「大学に入ると『いるべき居場所』をもう一度見つけなくちゃいけなくて、結構不安定になるよ」なんてことも言ってたなぁ。
 今日も付近では「浪人こえぇーっ」って声が聞こえてたんですが、なんで浪人を彼らが過度に怖がるのも、一種それが「何者か」ではない、主観的に価値が無い、アイデンティティの危機に晒されるように感じるから……なんでしょうかね。適当です。

 今のところ、僕は何と言うか、自分が寄りかかる明文化されたアイデンティティに心当たりがなく(灘校・文系・わりと上位、そんな程度なんでしょうか。こういうかろうじて言える自己紹介が、あと数ヶ月で期限切れになるというのは結構ギクッとしますね)将来何になるかなんて考えてすらいないわけで。どうなるんでしょうね?けどワリと「俺は俺」で安定していけるのかも知れないです。

 自由、それに何の意義があるのか、正直わからないけど、人は自由であるために学ぶのだそうです。ちょっと古臭いかもしれないですね。どうせ人はどこまでもシステムに囚われた存在らしいですし。単純な例であれば、何らかの言語体系に寄って立たざるを得ないとか。
 けど少なくともその中で僕の精神が「なるべく自由」であるためには、単純に語れるような虚像に自分を託すようなことはしちゃいけないんだろうな、とか思っています。いや、なんでしょう、適当ですね。
 僕は「将来のなんとやら」が分からない、というずっと抱えていた不安を、それ自体の意義を懐疑するというアプローチで克服しようとしているのでしょう。けれどやっぱり、美しく将来を語り、清新な鋭気をもって国を背負うとか、そういう清々しい生き方を、哀しいほど羨ましく思う時が多々ある。世間を照らすおてんとさんの下を堂々と闊歩できやしないか、なんてことを考えてしまう。スッキリ割りきりが行きゃ楽なんですが、当座は無理でしょうし、拘泥するにはするなりの理由が色々あるんでしょう。単純なとこから言えば親への義理とか。「エリート像」から体を反らそうという「選択」への逡巡……かな?


 自由はサンテンの空気に似ている、とはふじいさんの言、ではなく芥川の言なのですが。選択、責任、嗚呼、重負担。