構造的不幸主義

mixiニュースによると不幸な思考の3パターンがあるそうで

一、自分を責める
一、悪い方向へ考える
一、自分に悪いレッテルを貼る


これをひっくり返すと
一、自分を責めない
一、いい方向に考える
一、自分によいレッテルを貼る


鈍感、楽天、傲慢の三点セットじゃ幸福というかおめでたいだけじゃないかと思ったり。論理的には別にこれを肯定してる記事じゃないけど。極端な反例として

だから何かにつけ孔子アリストテレスが中庸を大切にしたのかな。どっちにしろダメだから


自分に限らず極力何か特定のものを責めるべきじゃないし、悪い方向も考えなければ決断や成功はできないし、自分に下らんレッテルを貼っても自己満足にしかならない(ところでアイデンティティの確立と自己レッテル貼りはイコールなのかな?)

基本的に上記三不幸パターンは自信のなさから生じるものだけど、1で自信満々の奴よりは100で自信がない方がマシに思えるし、向上可能性も高そうな気はする。
かといって思考から不幸スパイラルにハマると向上もへったくれもない(しかしボルトのように人類のトップを極めた人が努力できるのは凄いが、いまいち想像しがたい心理の境地)
相対的な比較の要素を極力排しつつ、自信を確立する……むずっ
自分の中に理想を設定しながら、理想への漸近を不断の努力により証明し続ける。しかし一方で内部規範の理想像自体が他者だから結局は同じなんだけど。まぁ完全な内部化は不可能だし、直感的な負けん気とかまで不純と否定するのは違うのだろうなぁ……

「不自然な心理」を排除すると言い換えても、結局は自己の罪悪な部分を肯定することに。いや、外部規範がないと罪悪にさえならない?
うが、純粋な自己本体なんて画定できないのだから、自分が採用した道徳は外部規範でありながら内部規範でもありうるし、従うのは別に構わないけど、同一規範を採用した者同士で達成度に差異が生じて結果的に劣等感の種になる、と。わからん


それでも歌謡界を中心に蔓延る「ありのまま生きればいい」は雑すぎて嫌いだ。自分の「ありのまま」が許せない人間は生きられないのだから。ありのままの自分を許せるほど自信があるミュージシャンに、どこをどう探しても根拠を見つけられない平凡な人の気持ちなんてわかんないよ、多分。そんな歌を聴く度にいつも思う。

自信がない人を救うとしたら、どうすればいいのだろうな。わからない。そもそも救うとかおこがましすぎる気もするが。ただ、気にはなる。