解説される屈辱

 また弐号機が出てきたような。まぁ比較対象がはっきりしてる分、昔よりはクリアだけど、その分かえって救いがない


 ちょっと劣等感とやらがふつふつと湧いてきたので、自分の良さを考えてみたが、行為自体がむず痒く醜く気色悪く滑稽に思えて全然つづかない。よさを思うことが、自分の中の最も憎む「怠惰」を肯定してしまうような気がする。
 自分の良さに思いを馳せる、結果自信を持つ……それが堕落にすら思えるのは「思春期特有の完璧主義」とかいうものだろうか。そして自分の今の煩悶は「向上に繋がる苦しみ」なのだろうか。なるほどなるほど

 ……俺を、勝手に、解説するなッ!!!

 「思春期特有」だとか言われることが、納得しつつも、心底腹立たしい。けどこれもきっと、「自分がユニークだと思いたい思春期にありがちな自意識過剰」なんだろうな。フヒヒ。どこまで行っても解説から逃げられないじゃないか。当たり前か。自分よりはるかにキャリアのある人間が積み重ねてきたケーススタディから導き出される総論を相手どって、逃げ切るなんて確かに不可能だ。だがそれにしても腹が立つ。自分の思考が、誰かの轍を踏んでいると思うと、何もかも投げ捨てたくなる。考えている自分にさえつばを吐きかけたくなる。……こうやって誇張すればきっと解説の網から抜け出せるとでも思ってるんだ。馬鹿か俺は。自分の問題を抽象的に、蓋然的に把握しなおしてしまったら、絶対に解説枠内に放り込まれてしまうに決まってる。つまり一切の捨象を拒否すればいいのか? それじゃ意味ないんだろうなぁ……

……意味不明になってきた。とりあえず自分が劣等感に苦しめられるという自体そのものが、何よりも許し難い矮小さの象徴のように思えて、更に自己嫌悪。分かりやすい悪循環構造。
 劣等感と立ち向かう気力を持てないながら、捨て去るだけの分別や決断力も持てない。相手の長所と自分の短所を比べてるからダメなんだけど。個々の性質は建前上比べるべからざるものではあるんだが、ぶっちゃけ比べられるものであるからにして……と

 あぁー。「比較」なんか上手く使えない。一方通行だ。自分を卑下する部分ばかりを探し続ける。卑屈である。許せん。もういいや、眠い。寝る。起きたら気分も変わってるかもしれない