価値の絶対視

 父親と話して言われたこと
「お前のその考えは『全てのものが絶対的価値を持っている』というだけで、本質的には『価値絶対主義』となんら変わらん」

「どうして人を殺してはいけないのか」という質問に返すべき答えは『それが社会のお約束だからです』でしかない
概念の“価値”は「自分が選び取った」というところにしかない。殺人も人道も、そもそも『客観的に価値がある』というものではない(ここでいう客観的は絶対的と同義である。少なくとも、僕はそう思っていた)
 その観点からすれば、「人を殺してはいけないのか」という質問自体が無意味である。結局はその高校生が「殺してよい」と思うか否かに尽きる。
 そこまでは知っていた。肝心なのは高校生が「殺してよい」と思ったからといって、それは僕にとって何の価値もないことである。高校生の「殺してよい」という価値観を、僕は無条件に尊重しなくてはならぬと思っていたようだ。そういうわけではない。その人の『価値観』が僕にとって「尊重すべき価値」を持っているように思えるのは、僕自身が「人の意志を尊重すべきである」という一種人権的な価値観に立脚しているからである。つまり僕は人権思想に囚われている。そしてこの絶対化された人権思想の上から見ると、全ての発言に「侵すべからざる価値」があると思えてしまうのだ。でもそれは「絶対的な価値がたくさんある」ということにすぎない。狂信的な「唯一価値絶対主義」に対して、また狂信的な「全価値絶対主義」だ
「価値は関係性の中にしかない」と構造主義。「殺人」で言うならば、自分がそれを選ぶか、選ばないか。是か非か選ばないならば、その倫理観に価値は生まれてさえいない。ただそれは一種の「概念」として、そこに在るだけ。選んだその瞬間に「価値」となる。この感覚が恐らく、価値の相対性というものなのかもしれない。その人にとって価値が在る信念を傷つけないというのは、自分の人道的倫理観に基づき、「傷つけないこと」に価値を見出しているのであって、向こうの信念に「価値」があるからではない


 そんなことをあれこれ考えて、結構スッキリした