おなやみ相談所

「大学受験制度の現在の形式に本質的、合理的な理由はあるのか?」
 何もよくわからないうちに大雑把に決められる文理わけ。役に立つとか立たないとかあれこれ言われる教育の内容etc
 すでに10ヶ月を切った(怖ッ)今も、「なぜ受験勉強をしなくちゃならんのだ」ということに対する「非現実的な」答えは出ない。現実的な理由は多々ある。「やらなければならない」という諦観もある。が、その諦観、惰性で、受験勉強をしても、恐らく自分のモチベーションは保てないと思う
 何らかの形で、納得をしたい。あれこれ考えている

 もちろん自分があれこれ煩悶してるのは、現実逃避なんだろう。理由の半分がサボりの正当化なんだろーけど、少なくとも何らかの形でこの煩悶にピリオドを打ちたい。ピリオドを打った時に、初めて自分の意志で受験に取り組めるんじゃないか?という淡い期待もある(実際そう上手くはいかないかもしれない)

 こういう重大なことさえ気を抜くと放置してしまう自分に染み付いたナマケモノ加減にはいい加減辟易しているけど


 昼休み暇だったので、職員室で両刀先生と受験制度について世間話
 文理2分割は戦後からで世界でも比較的少ない形
 大学側は受験生に要求している『理想の能力』(ex.哲学的思索の深さ、資料からの深い洞察)があるけど、『哲学的思索の深さ』とか客観的・公正に測るのは相当なコストがかかる。結局は『これを理解していれば、こういう能力がある程度あることは期待できるね』なんて感じ。『能力測定精度』と『コスト』を天秤にかけて今の受験は成り立っていて、ベストな形かどうかは全く保障もない
 なんて話をしていた。まぁ言われてみれば当たり前で、あくまで能力の目安なのだろう。受験で問われることは、求められている理想の能力から演繹されたものではない。ただ、少なくとも受験勉強で優秀な成績を残すこと、それは「辛いことでも投げ出さないで努力が出来ること」の証明にはなるし、それは大学側が求めていることなんだろうね。さすがバイ川!いいオチを持ってくるものよ。まぁとりあえず今日きちんと理解したことがそれ


 しっかし自分が大学に行く理由も、「周りが行くから」「その方が将来いいから」みたいな単純で生活感のあるものだ。それをもっと、昇華できないものか。遠い夢のためのステップである、なんてことが言えればカッコいいのに

 何をしたいかは決まってない。法律だの会計だの、自分が何かのプロになるような予感もしない。自分の長所が特定の有形のもの(法律知識、プログラミング技術なども含めて簡潔に定義されるもの)になりそうな気もしない
 これといったことがない、それは嫌だったけど、中1からも、きっとそれ以前からも、「広く、何でも」って思って生きてきた。そのことが失敗だったとは思わないし、多分自分はそうあるのが一番自然だと思う。性格的に
 何か一つだけ!といわれれば、文章力かな、と思う。あまりよくわからないけど。誰よりも広く物事を知れるように、それを深く掘り下げて、深いところで結び付けて、発信できるように。洞察力、表現力、知識、言語能力……そういった「教養」を鍛えて行こうかな、なんて思ったりしている。そういうのが身につけられたとして、そこから先どんな縁が回ってくるかは知らない
 とりあえず、僕はどうやらそういう風になりたいんだと思う。どこへ持っていっても大丈夫な「教養人」ってことだ。できるかどうかはわからない。あと4、5年の経験と修養次第だし、その後の心がけ次第だろうなぁ

 そんなこんなの自分の知性を完成したいって思いを、いかにして自分の受験生活に反映できるのか?ということが目下の思考のネタなわけです。つっても教養ってなんやねん!とか、そーゆーことも突き詰めて考えたほうがいいんだろうなー。とりあえず眠いから寝ます