リハビリテーション。

 最近更新率が低下してきたので、少し書きます。題して廃人体験談。比較的自分の日々の生活に自信を持っていて、「モンハン1000時間」とか聞いて「理解不能・想像するだけ無駄」と判断するような方に


 この冬休みにやったことというと、一言で言えばゲーム。ドラクエ3、クロノトリガー洞窟物語魔王物語物語あたりを消化し、FFの用語wikiを随分編集し、やりこみレポートを読んだりしていました。全部キャンセルすれば、宿題考査の点数を平均10点上乗せし、年賀状を書き上げ、10冊本を読んでここに感想を書き、駿台の模試を直し、単語を新たに50個ぐらい覚え、kwtのスタンダードをこなすだけの時間を捻出できた気がします


その時間をで得たもの
・やりこみ度とグラフィック(SFCレベルでは最高クラス)以外はクロノトリガーの完成度はRPGの限界値に近いこと
ドラクエ3が定評に違わぬ名作であること
・バラモスは実はゾーマより強かったということ
・エミュで早送りが出来るだけでゲームの快適さがかなりあがること
フリーゲームにも名作が多々あり、それだけで飽きないこと
・自分は放っておくと読書でもスポーツでも数学パズルでもなくゲームをすること
・ゲームは夢中になれるほど好きだが、ゲームをしている自分はあまり好きではなく、自分よりもゲームを愛している人間は多々いること


 今日ここに「サルトルは難解であった」とか「ニーチェはこういった」とか書いているルートもあったのだと思うと、げっそり鳥肌です


 ずっと現実世界のなんやかんやに背を向けてゲームしてたりすると、脳内に何か実体を持った「ぼんやり」が広がっているような感じがします。麻痺、無気力、と一言で言えばそうなるのでしょうか

 とりあえず最大のポイントは「乖離」です。理性と行動を食い違わせ続けると、自分の行動が自分で制御できなくなります。そのメカニズムを少し考えてみます。以降「ダメ活動する自分」を身体とでも書いておきます

 何も意識しなくても身体がゲームを始めます。多少現実を思い出したりもしますが、宿題考査が明後日、とかそういう風なものを思い出しても、思い出したこと自体に若干安心し、「OK。まぁちょっと軽くそれを意識しながら」とゲーム関連行動をし、時を忘れてしまう
 勉強不足等の報いが来るまでにはラグがあるので、脳内には「まぁ時を忘れてゲームをしてしまったが、(短期的には)別に何も起こっていない」という経験が積み重なっていく。論理的に思考すれば、いつか報いが来るのは明白なんだけど、そういう体験が積み重なると不思議と「勉強せんとな」という理性に対して免疫が出来てきます

 ゲームは進めれば進めるほど面白くなってくる。んでもって意志・理性を裏切ることに耐性ができてくる。あとは泥沼です。休み中は意志力でしか自分を動かすことはできないので、意志が効果を発揮しない、理性の働きかけに耐性ができてしまうというのは結構決定的です


 遊び倒せば、その分の報い・いわば罰が長期的には当然あります。要するにテストが来て、ひどいめにあいます
しかし期末の場合は「罪悪感>罰」でした。サボったけど思ったより悲惨でもなかったため、「意外と大丈夫じゃないか」という経験が上乗せされ、冬休み中の行動への罪悪感を減退させる効果もあったと思います
 おそらく罰を真っ向から見据えて受けてとめていないのでしょう。点数が落ちることは決定的ではない、まぁ色々事情があった分は割り引いて考えよう、などなど、逃げ道を設定しています。「多分まぁ点数見たら自分の目も覚めるであろう」という考え方をしていたこと自体に、理性と身体の著しい乖離が見られるでしょう

 罰を過小評価、もしくはなかったことにすることで、罪は罪でさえなくなっていく。そういう感じで泥沼にはまるんでしょうかね。その自己欺瞞を断罪する役割にある理性は麻痺です。外部の存在である社会や親と自室は隔絶されています


 「まぁ大丈夫だ」って思い込みは倫理の授業でエリクソンが言っていたところの「基本的信頼」かもしれません。この信頼は基本的に理屈より強く、理性よりも身体寄りです。ゲームばっかして実際成績も下がったりしているという反例がある以上、論理的整合性はない。身体を正当化する力としてこの「甘えみたいなん」が作用すると、理性からは手がつけられない。自分で論理を否定したら、理性でどうこうなるもんでもないと

 うーん。何が言いたいのかわからなくなってきた。もう少し整理してからまた書き直します