Face

 喋りに苦手意識は相変わらずあるが、少なくとも気心がそこそこ知れた相手とサシで話す分にはできないわけでもなくなってきたらしい。舌噛む回数も知らないうちに減ってきた気がする
 一人でPCに向かって考えるよりは、他人と喋ってみる方が健全で変化のスピードも速いのだろう。自分への信頼感はなくなってきたけど(贅肉が落ちたと理解)他人への信頼は、徐々に増してきた
 昔はあんまり自分の内面を掘り下げるような話を振っても、続かなかったりすることが多かった。冷静に考えると、そこに持って行く流れだとか、僕の表現能力、話の聞き方などなど、多分僕自身の問題が結構大きかったのだと思うけれど。まぁ冷静に考えられなくて「あまり他人にこういう話をするものではないのかな」と、自分の頭の中だけで処理するようになったのかもしれない

 頭の中での処理は、手元にある思考材料を組み合わせることしかできない。新しい組み合わせは生まれても、思考材料の追加だけはできない。言葉尻では分かってはいるが、「十分思考材料は持ってる」みたいな「自分はそこそこ大人なはずだ」という自信が、「思考材料不足」を認めさせなかったということかもしれない

 まだまだ経験って足りなくて、その部分を補うことは思っていたよりも難しいのだと気づいた。どんな経験が自分に足りないかは、他人との比較でしか見えないけれど(努力だとか運動だとか)
 実際にその経験がどういう意味を持つかは分からない。やってから振り返ってみればちょっとは見当がつくのかもしれないけれど。でもあまり功利的に期待するのはやめよう。今の自分で考えられないことを、考えれるようになるのが経験の力だから。「このことを考えるにはこういう経験が足りない」なんて言うのはどんなに緻密に考えたつもりになっても、カンにすぎなかろう(何も考えないよりは多少マシかもしれないけれど)


数値的目標

  • 11月の東大オープンで、最低でもC判定を取る
  • 中間の国語で90点以上取る
  • 中間の英語で90点以上取る
  • 1ヶ月で本を10冊読む
  • 読んだ本の感想を、最低5個はここに載せる


 とりあえず、比較的近距離の目標に向かって「数字を意識して」努力するのは、やってこなかったことだろう。〆切までに原稿をよりよいものにするとかぐらいはやってきたけれども、そこの満足とかは恣意的なものだったし

 会長なんて週4テツなんだから、僕に出来ることはもーちっとあるはずだ。定期で目立たなくても、塾の勉強を懸命にやってる人間がいることはこの前知った。正直言って受験をやりこむつもりはないけれど、一発クリアしないと面倒だ

 ただ自分の東大志向も言ってみりゃother's dogmaに従い、思考停止してたわけだ。このまま思考停止して「そこに山があるから」的に勉強して、東大の「モラトリアムボーナス2年」をもらってから考えるというのは多分王道か常道か
 しかし高3までに社会での目標が決まってしまえば、2年のモラトリアムの旨みはなくなる。それでも国内的には偉大なる学歴になる、が、別に海外に出たらデジハリも東大も『日本の大学』らしいし
 ストイックな生き方をしてきた人間であれば、「そこに山があるから」を全面に押し出して戦えるのだろうけれど。灘中受けたときのモチベーションはまさにそれだったけど、その構造をもう一度当てはめるのは恐らく不可能だ。あまりにも多くの要素が変わっている。自分自身も含めて

 社会をChange!したりするような大規模なものに憧れてはいるけれど、一番自分をこれまで惹きつけてきているのは、人の心の綾模様だと思う。理由はそれだけじゃないけれど、内面的には比較的こじんまりした、規模より密度を欲しがってきたと思う
 父親という一つのモデルが影響しているのだろうけれど、自分の内的世界を豊かにすることに、「回り道」は無いのだし、生産性重視の世界に身を置いたとしても、それが役立つことにはなると思う(これが「どう役立つか」について軽く一席ぶてるぐらいにしておかないと、他人には「役立っている」と認めてもらえないんだけれど)

 もし本当に志向がそうであれば、大学で上を目指す意味や必要性は、大分下がってくる。致命的な問題ではなくなる。ものの、実社会で金を稼がなきゃならん、仕事せにゃならんとなった時には、上にいた方がより広い選択肢を持てるはずだからな、というのが今のところ言い訳に出来そうなもの。上を目指すことは自分の学力へのチャレンジでもあるし、自律して努力する大きな動機になるはずだ

 さて、前から思いついていたことの繰り返しではあるけれど、少し腑に落ちて見えるようになってきた気がする。なんとなくこれまで結構上滑りだったような気がしてくるから不思議