生まれ変わりたいと、不安だけど、思った

全力で生きている先輩の方に東京で色々とお話を聞いてきた。彼は俺の情けない部分を厳しく叱り飛ばした
一緒に行ったmagicianとの現状での差を目の当たりにした。4月に大先輩がプロデュースしてくれた様々なきっかけから、ろくに自分が学べていなかったということを思い知った。自信を持つ根拠がない。そのことが自分の自信を削ぎ続けていたが、その状態に甘んじて、行動を起こさなかった
自堕落な、自分の精神を鈍磨させる生活を送ってきた一学期。口だけで唱えれば、魔法が起こるとでも思っていたのだろうか?(そんな節が無いとは言い切れない)具体的なプランを練ることを忘れ、飛ぶように過ぎ去った1学期だった
凹みきって「先輩とは違う人生」を、下向きに探そうとしていた僕を勇気付けてくれて、蕎麦までおごってくれたMさんに、本当に感謝しています。アレが無かったら今頃「あぁー俺は駄目だッ……どうするんだよ、このままじゃ駄目だろ俺ー」とか思いながら、ベッドに横たわっていたと思う
「失望されたんだ」というショックで反射的に鬱になっていたら、先輩が再び俺を叱ってくれることは無いんだろうな、と冷静に考えれば、そう思っている(Mさんの助言が無ければ当然冷静になんかならなかっただろうけど。「落ち込み」を冷静と勘違いしていた気がする)
先輩が真剣に語ってくれたあの時間を無駄にするわけには、絶対いけないんだと思う。俺を叱ってくれる人から逃れちゃ駄目なんだってのは、知識としては知っていたけど、感情からそう思えた(俺の感情とかは「重い」のかもしれない。ほっといたら沈むが、軽快に動かない。それを軽薄よりマシだと思っていたが、軽快にすることができるって考えたりしなかった)

今から思うと、演劇の時に、一番俺を責めたのは、俺だった
本当のところ、俺がクラスメートを信頼していたら。自分が間違ってもきっとフォローしてくれるって、スポ根モノのように実感していたら、きっと結果は変わっただろうな、って。少なくとも僕が文集で思いっきり嘔吐しまくったように、罪悪感に押しつぶされて逃げ出さずに、正面から、semiのように全力を尽くしたって言えたのかもしれない(ただ自分が全力を尽くす姿が想像できず、全力の尽くし方が分からず、その一方で全力を尽くせないことに失望している俺。要素は「全力」に限ったことではないけど、自己嫌悪の悪循環というか、それに陥っていた気がする)

俺が俺を責めることを肯定しすぎていたし、「自分は仕方の無い奴だ」と思っている方が正解な気がしていた。しかし今回、「自信がある人」がどれだけ輝いているか、そして彼らの目に俺がどれだけ“映らないか”を痛感した
先輩曰く、自信は自分の人生を充実させることで生まれる。人生の充実感がそのまま自信になっているんだと彼は言う。能力なんかじゃない。50あって自信を持てない奴もいれば、10で自信を持っている人間もある。同じ能力があるとき、初対面の人間に輝いて映るのは、自信を持っている方。magicianはそうであり、俺は違った
自分が自分を誇る拠り所がないから、あと自分の力を誇ることを『それを表に出さなかったとしても』図々しいことのように錯覚していたからだと思う

「今を真剣に生きる」って多くの一流の人が言ってる。けどそれができてこなかった。モチベーションが続かなかったからだろう。それを課題だと見ながら、「ではどうする」を考えず「俺は根気がない人間だ。こんな奴に何が出来るってんだ」っていう、やけに他人事みたいな心理を持っていた。父に言われ続けた「自己客観化」の間違ったあり方、もしくは捉え方だったのかもしれない。いつのまにか「自分は変えられる」っていう当たり前のようにみんなが知っていることを、忘れていってしまった気がする。それが最近多かった「自分が他人のような、虚ろな感覚」の原因だったのだろうか?
モチベーションは続かない。そのためにどうするか、を考えないといけない。言ってみりゃ、当たり前なんだが……
苦しくても誘惑に勝ち続けることが継続の決め手なのだろうか。強い誘惑に勝てば勝つほど、免疫がついていくに違いない。一度でも妥協してしまうと、過去の経験から行ってズールズルと行って自己嫌悪ループだ。だが、かといって以前自分が作った計画表みたいなのを見直してみると、それは「理想表」であって、「こうあるべし」という強迫観念をモチベーションドライバ(Mさんの言葉を借りてみると)にしようとしていたようだ。結局それは失敗している。重圧を感じさせることが、忘れさせない力になるかな?と思ったのだろう(自覚的ではなかったが)しかし感情が元々沈みがちな自分(そういえば物理的にも泳げないな、俺)に更に重圧をかけることは、今から思えば必ず破綻するモデルだった気がする
多くの人間には「闘争心」という最高のモチベーションドライバがあるが、俺には残念ながらあまりない。それも変わる可能性はあるが、多分“真剣に行動する”過程で(まだ何をするかは決めていない。今回得たことをまとめてから、考えていくことにする)おこることのように思われるので、それを計算には含まないでおくことにする。闘争心の分泌量が強化されれば、結構有益なんじゃないかとは思うし、「戦う」ってことを忘れないようにすることにしたい
多分、運動部の人らは部活の戦いで闘争心と、誘惑に打ち勝つ継続性を磨いているんだろう(無自覚的に、環境がそうさせるというか)僕が育ったワンゲルは風土的にメンバー全体が競争意識を持つというものはなかった。その中で一生懸命体力をつけるべく練習している人はいたが、その人に勝つことは登山の本筋ではない。山に迎えてもらう以上、身体を鍛えて山で倒れないようにするのは、山に対する礼儀としてマナーだと思う。山に敬意を払わない人間に登山する資格は無いだろう。とはいえこんな言葉は今初めて言葉に出来たことだから、自分にその資格があったかどうかはよく分からない。少なくとも迷惑をかけない程度の力量はあったと思っている
でもなんだかんだ言って、自分に課したノルマは高いものではなかった。そういう意味では意識が独立していたが、全体に迷惑をかけなければいい、という消極的大衆日本人的な発想だったと思う。エリートを自任するのであれば、そういう自分の感情を敏感に読み取るべきだった

自分が他人に劣るまいとして磨いたのは、メルブラの腕前だったり、まぁ文章の表現であったり(人の目を見開いたまま凍りつかせるような表現が創れればいいなとは思っちゃいるが、まだ全然勉強が足りない)自分が「役に立つ」と思えないことだった。それが自分で嫌だったんだが、まぁとりあえず、それを「無意味」と切り捨てるのは自分の時間にもったいないので、無理矢理にでもこじつけてしまおう。今日を境に、全ての過去を切り離して考えてみることにしたい。とりあえずメルブラを通じて何人か友人も出来たし、新聞に居座ることで知り合った人間も多い。何か、要するに俺がメルブラやそのことを否定するのは、彼らをリスペクトしていないってことになってしまうんだな。申し訳ないことに。結局この傲慢さ(と、それに対する嫌悪&無策)が、自分の首を締めまくっていたんだろう

今、自分の問題が芋蔓のように、明らかになっていっている感覚がたまらなく面白くなってきた。とりあえず、ひとまずこの辺りで一度上げておくことにする