自分を固めていたものとか

人間は自分に価値を見出すことで、充実感を得られる。同値ではないと思うけど、自分に価値を見出せないならば、充実感が損なわれるのは真か
どういう条件が揃えば、自分に価値を認められるかは人によりけりだろう(要するに性格による)
自分の場合は、他力を極力排して、努力でそれを遂行し、成功する(失敗しない)ということが営みにおける理想であり、自分に課していたノルマだった
が、具体的に何をどうすればいいかを深く考えず、ないものねだりから「純粋でひたむきで盲目的な努力」というのに幻想を抱いていたのだろうか。効率の向上をどうするかを考えていなかった。
「そういう風に考えればいい」という指針がなかったわけではないのだが、父親に言われると何か不安や怖さが先にたって、冷静に理性的にきちんと聞けないようだ。結局なんか気が焦ったり追い詰められたりしてしまう。父はそれを理解しているようで、配慮してくれているのには、今思い直すと色々と気づいてきた。
今思うのは打開点になりそうな部分が、ほとんど「自分が薄々わかっていたこと」の中にあるということ。ある意味、みんなそうなのかもしれない。Mさんにもらった全くのコペルニクス的転回ってあったのだろうか?精神的な立場は化学反応のように、劇的に変わった。そういう意味ではMさんとの話ってのは、一つのラストピースだった気がする。すごく時間が経った気がするが、実はまだ3日しか経っていない。でもむしろ短いような気もする
モチベーションの源泉を、切迫感などの過負荷によって行おうとしていた(そのため余裕のある休み中の過ごし方とかすっげぇ雑だった)また人並みかそれ以下かの精神的持久力しか持ち合わせていないにも関わらず、よりによって俺が根性論を取るのが破綻モデルであることは明らかだ。「根性なし」と「努力しろ」って言葉が頭の中で密接しすぎて、努力を「根性論的なもの」という風に小さく限定してしまっていたようだ


非才への不安を隠そうとするがゆえの、基盤が脆弱で“臆病な自尊心”。昔のブログを読み直したら、山月記の一節を写しているのを発見した。ちゃんと意識できていない。気づかされたことだが、意外と自分が得た知識(単語ではなく、特に教訓や金言)が心に定着していないで、活かされていないのも考え物だ
拠って立てる物がないゆえに、自分の中だけで膨らませた基盤のない自尊心にしがみついていたのだろうか。固い地盤に立っていれば、何かにしがみつく必要もない。ただ性格によっては全く気楽に自尊心にしがみつける人もいるようだが、前述のような事情で、自尊心が求めている方向に向いていなかったため、しがみつきながら常にずり落ちかけていた。それが精神を消耗させていき、夏ごろの無気力状態が続いていたのだろう
自分の力で自信を築けないため、他人に認められていること、それを存在許可(ビザみたいだ)とかにしようとしていた節がある。ただ他人は俺の薄暗い弱々しい部分をほとんど誰も見ないし、見ても言わないし(俺が他人でも言いにくいだろう。当たり前だ)そもそもあれこれ言う義理もないので、自分をごまかしていただけにすぎない(そもそも俺の全体に対する評価ではない。それは分かっていたが、「一部だけでもいいんだから」みたいな甘い論拠を使ってスルーしていた)
まぁその結果、ダラダラと安住する性格が出来上がったのだろうか