誰かに必要とされていること

RSSでニュースチェックしてたら、芸能界復帰した元ティーンズ・スモーカー加護愛がリストカットにも手を染めた云々を見つけ、ゆかしと思ひ調べてみた。ネットは広大だわ

まず見て感じるのは、異質なもの、理解できないものへの無条件恐怖か。理解できないのは幸せ者だからなんだろうけども。赤黒い静脈血が溢れ、肉がぷつぷつと見えるような写真を見るのは、酷くショッキングだった。屠殺の映像を見た日以来の
別段血に弱いわけじゃないし、むしろ吸血フェチだが、たけくらべの柱状態の腕の違和感っつーのは、どうしても逃れがたい。マトモじゃない

どの人もたいていが孤独と、自分の存在価値を感じられないことに悩まされていた。アイデンティティというか。原因は虐待やいじめといった暴力が目立つし、それが大きな問題なのだろう
リストカットは自殺願望ではなく、自分を傷つけてでも生きたいっていう証だとか。そうなのかもしれない。人それぞれなのかもしれない。切ったことがないので何ともいえないが、分かる気はしなくもない

中学入ってからこっち、自分が疎外感を味わうことはほとんどなかったが、久々に昔を思い出した。小学校時代の胸クソ悪さや、心細さ、プライドを自分で傷つけてしまった痛恨とか

どこかで書いた気もするが、自分を支えたのは絶対的な学力差だった。いじめられればいじめられるほど、僕はそいつらを心の底から憎み蔑み馬鹿にした。連中が同じ人間だとは思いたくなかった。それでもやっぱり、物理的に意味もない迫害を受けるのには絶望に近い気分がしたし、連中が見せる少しの優しさにもすがりつこうとして、尻尾を振りたくなることもあった。実際そんなこともあった。仲良くなりたいと思っては、無理だと知り、その反動で徹底的に心の中で罵倒して、踏みつけまくった
今思えば嫉妬もあっただろうし、連中からしても憎たらしい奴だったんだろう。頭で勝てないなら、暴力しかないだろうし。大体風化したが、未だに気分のいいもんじゃない

6年の時の教師は頭の血の巡りが鈍い、平凡なおばさんだった。クラスは崩壊していたし、僕のこと自体は哀れんでくれたが、力は無かった。僕自身教師のことを内心バカにしていた
ある日黒板のチョークを全部持ち去り、授業中にバカがそれをゲリラのように投げつけまくったことがあった。何回もだが。僕がそれに加担して一緒になってやってしまったこと、これだけでなく、自分を哀れんでくれていただろうはずの彼女を見下していたぶってしまったこと
ほとぼりが冷めた後で感じた罪悪感と、自分のプライドを裏切ってしまったことへの後悔はくすぶり続けている。苦々しい、自分が腹立たしい、申し訳ない。この時ほど自分に失望したことはなかった

他人に認められたい、社会と繋がっていたいという欲求や渇望は物凄く強いもので、それが満たされなければ人間は狂ってしまう。傷をつけられる過程で、更に重荷を背負う羽目になる
心の傷と言ったら使い古されたようになるけど、暴力的な人格否定が人に刻み付ける無力感や、「自分には価値が無い」という失望感とか。感じたことが無いのは幸せなことだけど、感じたことのない人間には多分理解できないと思う
周囲の大人や、変わらずそっと寄り添ってくれた友人、成績への自信という拠り所があった僕でも少なからず耐えられなかったし、狂わされた。何か自分を上げるようでアレだが、頼れる大人もなく、友人もみな遠巻きにし、これと言って逃避する自信もない、そんな人が、理不尽な暴力が降りかかった時に耐えられるかといったら、無理だろう。戦えない

加害者の意識は当然軽いもので、ちょっとした快感にすぎないが、与える不幸は相当なものだ。全くつりあっていないビジネスだ。馬鹿馬鹿しくて仕様が無い


リストカット自傷行為、引きこもり。責められる資格がある他人はいない。また自責の念を持たずにやっている人はいないのだろう
静かに、変わらない強い優しさで、その人の柱になってあげることだけが、救う手立てなのかもしれない。少なくとも、傷だらけの手首の前に、下らない説教の出る幕はどこにも無い。何も言えなくなる

出来れば、本当に傷ついてしまっている人を、メンヘラだとか言って笑ってあげないで欲しい。無思慮な部外者の冷淡さが、結局、彼らを絶望させ追い込んでしまっているのだと思う

……示すのは勇気がいるけれども、僕だけは違うから信じて欲しいと言えるようになりたい。おこがましいことだけど、独りじゃないと思えるだけで、少しは救われるのかもしれない