easy go

生命は神秘的なバランスの上に成り立っているんだが、その割に"死ぬ"ってのは余りにあっけない
サイクロンで死んだ10000のミャンマー人にはそれぞれ親がいて子がいて人生があって喜びがあって嘆きがあって。彼ら10000人全員が、今僕が揺るぎなく抱えているpricelessな"意識"を持っていた
虫けらと同じようにサイクロンに散った、人々の意識。彼らの背負ってきた時間とか自我とかって、たかだか数行で解説できる"強い上昇気流"ごときに左右できるような軽いものなのかな

彼らは死んだけども、僕は無関心に無感動にぼんやり生きていられる。自分と他人の境界はあまりにも広すぎる
自分が神様の作った将棋の駒みたいなもんだと思ってみたりするのだが、それでもやっぱり、自分がミャンマーの10000人と同じ"吹けば散る生命"と思えなかったりする

生命が存在するのは素晴らしい奇跡で神秘なんだが。ならもう少し優遇されてほしいなとか言うのは、幼い人間の下らないセンチメンタルなのだろうな

認めて死なないようにするしかない。個人ってのはそんなぐらいの、小市民的な感じの、微笑ましいもんなんだろう

観念的なことを考えたいお年頃なのかな。とりあえず勉強しなくちゃ

でも今は何か色々なことがやけに小さく見えるんだよな。人の営みとか、社会だとか歴史だとかって

生物選択して最近よく感じるけど、生き物はほんっとによくできてるなとか。ATPとか酵素とか見てると畏敬を覚える
ラクルな工夫も進化の過程で〜と、授業じゃさらっと流してしまう。けど生物を学ぶにつれ、やっぱり神を信じる人がなくならないのも道理だなーみたいに思えた


もしかすると、ちょっと僕は自分とか意識とかを絶対視しすぎてんのかもね