暇人製私擬問題


現代社会私擬問題


壱:近代国家と明治憲法

 1868年の明治維新以降、日本は「上からの近代化」路線を進んでいた。そんな中明治六年の政変で下野した板垣退助らが「民選議院設立の建白書」を提出。(自由民権運動)が活発になっていった。しかし絶対主義権力を確立させたい藩閥政府は1880年には(集会)条例、83年には(新聞紙)条例、87年には(保安)条例などを出して運動を抑圧した。憲法制定後もこういった抑圧体制は続いていくことになる。
 問:「上からの近代化」に対して「下からの近代化」が行われた例を挙げよ
 問:板垣退助1881年に設立した政党の名は。一方明治14年の政変で下野した大隈重信が結成した政党の名は。そしてそれぞれの政党はどの国の政治形態を理想として掲げていたか。
 問:こういった運動の中、民間では多くの私擬憲法が生まれた。その中でも幅広く基本的人権を認め、国民主権主義を明確に規定し、最も近代的な私擬憲法と言われたのは誰の作った何か


 1882年、欽定憲法主義の(岩倉具視)をトップとして、後の初代総理大臣(伊藤博文)などを含む使節団が憲法について学ぶためヨーロッパに派遣された。その際ドイツの法学者(シュタイン)は南西ドイツ諸邦の王権神授説を基にした憲法を勧め、彼らに大きな影響を与えた。帰国後憲法制定に向け様々な制度が整備された。そして(1889211日)に大日本帝国憲法が制定された。
 問:欽定憲法は制定権の所在に着目した分類である。国民に制定権のある憲法は何というか。また君主と国民の妥協によって成立した憲法をなんというか
 問:様々な制度とあるが、具体的には何か。代表的な物を3つ挙げよ
 問:大日本帝国憲法の草案は伊藤博文の別荘で作られたが、その別荘はなんと呼ばれたか。また伊藤が議長を務めた憲法草案を審議する部署を何と言うか。またそれは憲法制定後どのような役割を得たか
 問:大日本帝国憲法が制定された日は当時も今も祝祭日である。現在の何と言う祝日か、そして当時では何と呼ばれたか。またこの祝祭日はどういう歴史上の伝説に由来しているか


 明治憲法は根拠を記紀神話に置いた欽定憲法で、主権は(天皇)にあり、その支配の正統性が神話におかれていることから、(神勅)主権とも言われる。体裁は(告文)、(発布勅語)、(上諭)、憲法本文が一体になっており、第一条「万世一系天皇之を統治す」、第二条の皇室典範、第三条「神聖不可侵」、第四条「天皇統治権の総攬」は(国体思想)であり変更不可能なものとされている。明治憲法は(天皇大権)が非常に多く記されており、立法権天皇の物で議会が持つのは(協賛権)であり〔第5条〕、議会閉会中には天皇が法律の代わりとなる(緊急勅令)を発すことが出来〔第8条〕、海軍大臣の助言により軍隊を(編成)する権限を持ち〔第12条〕、国家事変発生時には(非常大権)を行使することが出来た〔第31条〕。とはいえ現実には天皇の意思は全てその補佐官の意思であるわけで、結局のところ明治憲法は(外見的立憲主義)の憲法といえる。なお第11条、12条を後に軍部は(統帥大権)と総称し、内閣の関与を退けて独走する根拠とした。
問:支配の正統性を3つに分類したドイツの学者の名前は。そして明治憲法はそのどれに当てはまるか
問:神聖不可侵とあるが、つまり天皇は現人神だった。「現人神」の読みを2通り記せ
問:変更不可能とあるが、対して変更可能な憲法上の規定を何と言うか
問:陸海軍大臣の助言とあるが、参謀本部が輔弼するのは何と言う権限か


 明治憲法上の統治構造はフランスの法学者(モンテスキュー)の著書『法の精神』に記されているような三権分立が行われている。しかし、実際帝国議会は(協賛権)を持つに過ぎず、国務各大臣は天皇を(輔弼)する立場にしかなく、裁判所の判決は全て「天皇の名に於て」下されるものだった。当時の帝国議会制限選挙で選ばれた議員による(衆議院)と華族高額納税者などによる(貴族院)の二院制だった。二院の関係は対等と定義されているが、それは事実上不平等であることになる。また立法権の範囲は限定されており、(枢密院)が「重要の国務を審議す」るため、憲法改正などと言った大きな議案は成立しない仕組みになっていた。欧米では様々な思想家たちにより、権利の保障が完成しつつあったが、明治憲法では第二条にあるよう人権は(法律の留保)を伴うものだった。行政のトップである(内閣総理大臣)をどう決めるか憲法上には規定がなかった。司法権は司法大臣の指揮下にあり、三権分立の上で重要なファクターとなる(違憲立法審査権)が認められていなかった。
 問:制限選挙とあるが、選挙権を持つ条件とは何か。直接国税、満○才という言葉を使って記せ
 問:立法権の範囲は限定とあるが、具体的に問題点を2つ例示せよ
 問:権利の保障について。ホッブスは著書「リバイアサン」で、ロックは著書「市民政府二論」で、ルソーは「社会契約論」で、人間の自然状態をそれぞれどう定義しているか答えよ
 問:明治憲法で認められている人権は自由権が中心で、社会権についてはふれられていない。1919年世界で初めて社会権が認められた憲法とは何か
 問:司法権とあるが、現在の最高裁判所高等裁判所に当たる当時の裁判所の名前を答えよ


弐:明治憲法

 明治憲法史は大きく第一期〜第三期に分類される。以下の語群をそれぞれ分類せよ
A.議院内閣制 B.滝川事件 C.国家総動員法 D.民党・吏党 E.超然内閣主義 F.天皇機関説の提唱 G.大正デモクラシー H.男性普通選挙の実現

問:国家総動員法とはどういう法律か。簡潔に説明せよ
問:国家総動員法は天下の悪法として名高いが、ドイツでは更に凄まじい悪法が存在した。それは何か
問:大正デモクラシーの中心人物は誰か。また彼の提唱した主義とは何か
問:Hと同時期に生まれた法律で、その後緊急勅令によって改正され、労働運動や思想・宗教運動に大弾圧を加えることになった法律とは何か


参:日本国憲法制定史

 (1945814日)天皇は「終戦詔書」を出し、日本は敗北を認めた。そこに至るまで様々な国際協定などが結ばれている。主要な物を挙げると1943年に米英中の三大同盟国が行った(カイロ宣言)、1945年2月に米英ソで結ばれた(ヤルタ協定)、1945年7月に発表された日本への戦争終結の最終条件を提示した(ポツダム宣言)がある。一度は日本は(ポツダム宣言)を黙殺したものの、広島・長崎に相次いで原爆が落とされたり、ソ連が参戦してきたこともあって、最終的に全面的に受け入れた。敗戦した日本はGHQによる間接)統治の下に置かれた。GHQのトップは(マッカーサー)で、占領政策の最高決定機関としてワシントンに(極東委員会)、諮問機関として東京に(対日理事会)があり、米国政府の地位は(中間指令)だった。GHQは当初日本政府に憲法改正を行わせようとした。近衛文麿が(佐々木惣一)を招いて改憲作業を行ったのも、当時の(幣原喜重郎)内閣が(松本烝治)を主任として(憲法問題調査委員会)を組織させたのも、GHQの示唆があってである。他にも各政党が独自に憲法案を作ったが、どれも従来の「国体護持」の観点が抜けないもので、ポツダム宣言が日本に課した課題を認識しているとは思えないものだった。毎日新聞のスクープでそんな(松本委員会案)の実態を知ったマッカーサー改憲を急ぎ、GHQ自ら改憲案を起草するよう命令。その際「マッカーサー三原則」が書かれたメモを渡した。このメモの3項目を拡張し、民間の自主的研究団体である(憲法研究会)の製作した案のエッセンスを加えた草案が(マッカーサー草案)として政府に提出された。これが第90回帝国議会で若干修正され、(194653日)に日本国憲法が公布された。ただし日本国憲法が機能し始めるのは占領が解ける(サンフランシスコ平和条約)以降のことである。

 問:様々な国際協定とあるが、例示されている3つの協定・宣言それぞれの内容について記せ
 問:広島・長崎に原爆が落ちたのは具体的には何年何月何日のことか。またアメリカの原爆開発計画のことを何と言うか
 問:ソ連の参戦は文中の協定で決められていたが、日本はそのことを知らなかった。なぜか
 問:日本の統治の方法はドイツとは異なる。どういう点で異なるか
 問:マッカーサーはなぜ改憲を急いだのか。国内事情・国内事情・マッカーサーの事情の3点を記せ
 問:第90回帝国議会はそれまでの議会とは異質だが、どういう点で異なるか。2点挙げよ
 問:修正されたとあるが、以下の選択肢のうち貴族院で修正されたものを全て挙げよ
A.前文:国民の「主権」 B.40条:刑事補償請求権 C.15条:普通選挙の保障 D.25条:生存権 E.66条:大臣は全て文民 F.27条:勤労の義務


肆:時事ネタ

 国民投票法について。新聞記事をよく読んでかかればOK。投票年齢は18歳。最低投票数が決まってないのが問題。



 せっかくだから持てる最大限のクオリティをぶちかまそうと思いました。時間を使ったことは後悔してま……

 問題の解答は自力で調べてください。キーワードが浮かんで見えるのはマジやめて欲しいけど仕様だからしょうがないです。可能な限り始末はしましたが、それでも自由民権運動とか憲法は消えてくれないとですよファッキンはてな。例外指定しても消えないのはなぜだー