祖母と老人ホーム
もう入道雲まで出ていて梅雨の晴れ方じゃなくなってきた。梅雨の終わりの集中豪雨はまだだし、梅雨明け宣言は出てないが、七月も半ば、もう梅雨なんて明けたも同然だろう。
んで、そんな晴れた日に俺はsemi-graphの家に遊びに行くわけだ。とても不健全だなぁHAHAHA。
その前に母に連れられ、祖母の介護ホームに行った。平野にあるので彼の家にも近くてついでに行ける場所だ。今まであまり行った事はなかったが。ホームといっても大きくはなく、近頃よくある10人くらいにヘルパーさんが数人つくといった形のものだ。
入ると人のよさそうなヘルパーさんが迎えてくれた。連れられて中に入る。清潔で採光もよくて過ごしやすそうな場所だと思った。
広間ではもう一人のヘルパーさんが「幸せなら手をたたこう」と、保母さんのように周りの老人たちと手を叩いていた。その中に祖母がいた。以前市内の病院で見た時よりは落ち着いているような感じ。面白くもなさそうに調子外れに手を叩いている。
老人たちはみな一様にぼんやりとしている。ぼんやりとしながら手を叩いている人もいれば、何もせず本当にぼんやりとしている人もいた。声をかけにくかった私はヘルパーさんと何やら話を始めた母の横に座って、コンビニで買ったカップ入りのカフェオレ(134円でデザインや味がちょっとリッチな奴)を飲んだ。
コーヒーを飲みながら祖母を見ていた。私が来ていることには気づいていないらしい。母が来たことにも気づいているかどうか。ひと区切りがついたときにヘルパーさんに声をかけられ、やっと気づいたようだった。
私を見る目は知らない人を見る目と同じだ。まぁほとんど誰にだってそんなものなのだが。ただ名前を言うと覚えているみたいで、少し安心した。ただ祖母の心象風景の幼い私と今の私が一致しないようで、すぐに忘れてしまった。
ヘルパーさんは老人たちに歌詞を書いた紙を配って美空ひばりの「港町十三番地」を聞かせる。時代は違うが、何となくいい曲だと思った。椎名林檎がカバーしてたので多少親近感があったからかもしれない。
一度聞かせた後、ヘルパーさんはみんなに歌わせようとする。音程もリズムもばらばらだし、祖母のように歌わない人もいる。何となく見ていると寂しくなる。でもヘルパーさんは笑みを崩さない。老人の手をとって演歌を歌う。
コーヒーを飲み干した頃に歌も終わり、祖母が介添えされてやってきた。母が買ってきたコーヒーを渡す。ストローの使い方が思い出せないようで、なかなか吸えない。母が教えて、勢いよく飲みだす。飲み続ける。
時間の動きが緩やかな場所だ。静かではないが、動きはあまりない。もう止まりかけている老人たちの終の棲家。人間が老いるのはこうも寂しいことなのだろうか。記憶を失って能力を失って自由を失っていく。
祖母を見ていると切なかった。幼い頃の元気でズバズバ物を言っていた祖母が思い出されて。でも今は会話も成り立たないし、発作を起こしてヒステリーになったら手がつけられなくなってしまう。
ヘルパーさんは「普通に接してあげればいい。自然体で。発作を起こしてしまったら大変だけど、穏やかに接してあげてほしい」と言っていた。こういう切なさや寂しさやそこからくる苛立ちとかは余計なのだろう。
人間は老いていくんだからそれは受け入れないといけないのかも知れない。でもこういう風になって他人に世話をされて、それを恩に感じる心も消えていくほどに老いていくのは嫌だと思う。
どこの作家だったか、「自分で死のうと思って死ねるうちに死にたい」と言っていた人がいる。多分無理かもしれないが、それが理想なのかも知れない。
今の祖母を否定することはできないし、してはいけない。でも、あぁいういわゆる認知症の老人を見ているのは、どうしても切なくて忍びない。