とつげき東北

「制度としての名言」という文章です。
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 とかく不気味に感じられた学級会での討論や、道徳の時間の生徒の返答を思い出すと良い。「別に、部落差別は自分と関係ないからどうでもいい」という一番ありそうな意見は決まって語られず、その代わりに「本人の努力と関係ないのに、生まれで人を判断するのはよくないと思います」などという誰のものでもない意見が、妙な感動につつまれながら語られ、まるで部落差別が、はなから誰の得にもならなかったかのように処理される様子は何だったのか。
 同様に、会社の採用面接や事故被害者遺族へのインタビューもまた、私たちが生きる上での現実とは著しく乖離した「暗黙に用意された返答」を口にするための儀式と化している。「御社が業界で着実な実力を伸ばしてきた」ことや、「自分がステップアップできる」ことが平均的な大学生の「御社を志望した動機」とやらを表すはずがない。およそ志望動機に「正解」があると仮定できるならば、「あまり、ありません」がそれだろう。「夫が死んで、少し悲しいけれど、どちらかというとほっとしました」と感じる妻がこの世に存在しないことになっているのは、いかなる理由からか。

 こういう感覚を残さなきゃいけないんだよな、多分。俺は弱いから、すぐに優しいウソに流される。

 あらかじめ用意されたある種の空間、ある種の関係、ある種の文脈において、特定の「語り方」が要請されることがある。主張や意味づけまでも規定されることがある。だからこそ、不自然な言葉、それも時として無様な言葉が、平然とまかり通ることになる。不自然であることが即座に悪であることと照応するかどうかは置いておくにしても、私たちはひとまず、そうしたものから自由であってよろしかろう。

 自由。そう自由でありたい。ていうか自由になるために知性がある。「教養」は英語においてLiberal Artsであり、「自由の術」。
 初期条件の規定はあるにせよ、それを暴きたい。ことある度に「自分を知ること」に執心しているのは、それが自分のはずせない拘束を可視化し、「拘束の無い自分」を想像できないかというところである。ブログでやってるのは恐らくその作業だった。後付設定。


 しばらくこのサイトに張り付いてみよっと