卒業式レポ

 今回でとりあえずここ最近ずっと続いていたブログ更新はしばらくお預けです。何度も繰り返さないと、またやっちゃいそうですからねぇ……w

 卒業式はあたたかかったです。気温もですが、雰囲気全体が。

 本校の式は証書をもらうため壇上に上がってから、若干自由に行動でき、その時に自分の率いていた部やクラスの人らに呼びかけて起立させ、お世話になった方々に礼をする、という機会が作れます。図書委員長でしたので僕もやらせていただきました。パフォーマーとしてはトップバッターでしたので、結構緊張して、司書さんの片方にお礼を言い損ねて後でカエルのように平謝りしてましたw
 巨人軍スタイルで壇上に登板し、サインボールを客席に投げる人や、コントじみたスタイルで思い出を振り返る人など、例年色々なネタが登場し、場を盛り上げるんですが、今年はそういう祝祭的行動をとった人は……えぇ、一人黒歴史を作ってましたね(しかし何故彼は他人にヲタクアピールをすることにあれほどの執着を示し続けてきたんだろ? いつか直接聞いてみたいです)
 けどリハの時、あしながおじさんから刺された釘が効いたのか、それ以外はみな「式典らしい行動」をしてました。色んな人が色んな人に感謝したので結構長くなりましたが、誰一人として文句を言う者はおらず、「いい卒業式だった」と言っていたよと担任。
 ちなみに壇上に上がり証書をもらう卒業生らに、在校生の知り合い(暇にしている同級生と)が「loughさーん!!!」って声をかけたりするのが風習です。部活などを通して後輩とのつながりを確保していない灘高生は「卒業式で自分の名が呼ばれなかったら情けねえな……」という不安を、卒業生に参加するたびに感じ、「後輩を大事にしなくては」という先輩心を新たにするのです。いい風習でしょw ただ例年名を呼ばれない人が出てきてしまい、ちょっと気まずくなるのが難点なんですが。今年は結構、そういう人らに同じ卒業生が声援を送ってたと思います。その辺も式典の温かさを増したのではないかな、と。

 校長はやっぱりKYでした。党関係のスポンサーが下りたらどうするwなんとなくポッポ首相と同じ空気を感じます。天然なあたり。

 理事長はふにゃふにゃしてて、育英会長は「ナンバーワンになれ」的なあんまし深くないこと言って、同窓会長は確かいい話をしてましたね。なのに内容が思いだせないよう、ナンチテ。前日3時間しか寝てなくて……(汗)
 じりーの送辞、前年の原稿の日付がそのまま残ってましたねwやれやれです。
 それに対するしんじろうの答辞は、本当にすばらしかったです。涙腺の固さに定評どころか負い目*1すらある自分が、聞いてて目が潤みました。正直、高2の時、生徒会長に就任した時のごくふつうの挨拶とは、同じ人間がしたとは到底思えないほど、心に響く深い言葉でした。
 そこから担任団への花束贈呈、しんじろう自ら指揮を執ってのサプライズ「仰げば尊し」への流れ、本当に効くものでした。客観的にも、主観的にも。歌いながら、O森がうつむいて大泣きしてるのをみて、僕も声が震えました。


 その後場所を変えて、退任なさるT翁への送別会。花道を作って出迎え、グリーンのチャンピオンブレザーを贈呈し、万歳三唱。ものすごい歓声の中、T先生は本当に嬉しそうでした。長い間、ありがとうございました、ホントに。


 その後教室に帰って、担任から素晴らしい式だったと称えていただき、「前うけもった学年以上の学年が現れるとは思ってなかったけど、今日に至って、君らはその学年を超えたと思う」と言ってくれました。ただただ、よかったよかった。


 その後は文集に色々な人からメッセージを頂いたり(一般的にはアルバムの余白にするものなんですが、忘れててw)して、ワンゲルへ。例年後輩から卒業生へ色紙が贈られます。今回は写真つきで、なかなか凝った装丁でした。去年はFさんが一つ一つ得意の色鉛筆でイラストを書いてくれたんでしたっけ。いい男です。

 僕はどうやら「気さくで優しい話が面白い先輩」だったようです。結局これはベッタリつきまとってた僕を、面倒くさがらず愛してくださった先輩方のおかげだと思います。年齢の高低差を利用すれば重力加速度によって後輩へのインパクトはよくも悪くも大きく増える……会長さんは元気にしてらっしゃるでしょうか。政治の変化が大きくて大変でしょうけど、でも逆にそういう動乱を入庁早々肌で経験したことは、むしろプラスになるかも、てか彼ならサラッと武器にしそうですね。
 けど、自分がこうして後輩に素直に慕われている、というのは、なんか自分の新しい側面を発見したような気分になります。一人でいる時の人格がどういうものかはこのブログが雄弁に語ってるでしょうからw
「自分は人を愛せていたのだ」 昨日帰ってから何度も色紙を見つめては、そのことを確認しています。泣きたくなりますね。僕はワンゲルという場自体が、そして何よりそこでともに過ごした全ての人が好きでした。その証が、こうして、形になって   誇らしく、嬉しい。

 胴上げはsemiが散々怖がってくれたおかげで、全然恐れずに吹っ飛ばされましたw



 その後かごの屋で遅い昼食をとり、気温がぬくすぎて存在を忘れてたトレンチコートを学校に回収に行った足で、コートつながりでコートダジュール一人カラオケで10曲ほど。久しぶりに歌ったからか、花粉でも引っかかってるのか、鼻腔やのどの開き方を忘れてて、不本意な声量しか出せなかったです。
 別に一人カラオケは他人に発見されると「友達がいないんじゃないか?」と誤解されそうですが、別にやってる分には全然寂しくないし、防音の効いた個室で好き勝手自分の趣味を曝け出せる機会は、そのぐらいしかないですよ。あんまりやりすぎると、自分の中の獣性(他人に引かれる要素)をふくらますことになるんでしょうけどねぇ。気をつけなさいよ誰かさん。


 その後、尼崎でしゃぶしゃぶ。座敷・食べ放題というだけで1000円上乗せされたような錯覚を覚える店でした。最初は結構卒業っぽい話を左右に振ったりしてたんですが、そういうノリでもなさそうだったし、そばのsaltierとは散々その手の話をしてしまったし、ということで次第にフェードアウト。ていうか食いすぎでねむくなって、会話すら覚束なくて、20分くらいホントに寝てましたね。まぁ別に悪くはなかったです。


 8時半くらいに別れ、上手くいけば同じ寮で生活するであろう桜井人と道中色々と話しながら(割と同じようにヤル気がでねぇとぼやいてました。どんな相手も内心で一定量批判してそうな辺りとか、彼とは案外よく似てる気がします)帰路に着きました。


 これからは理系の人らとかと会おうと思ったら、いちいち約束せにゃならんのだなぁ、と。開いてしまった距離を思うと寂しくもあり、切なくもあり。共有できる話題も減ってくんだろうな、って。
 けど今後は、それぞれ更に違う道を歩んでく。違うものを見て、違う感覚を抱きながら、けど僕らが「灘高62回生だった」って事実は、ずっと芯に残り続ける。寂しさよりずっと、再会した人に、驚かされることへの期待が大きい。


 ……けど、ひょっとすると今生の別れもあるんかな。どうなるかはわからない。けど、不安にかられる必要も無いか。



 後は、受かればいい。残りの2週間こそ悔い無く。そうすりゃ受かるんだから。確率論は考えない。


 きっと次に本当に、本当に、別れを痛感するのは、僕が合格し、東京へ転居する時になるだろう。それは2ヵ月後であると信じるw

*1:父親が感受性!感受性!と非常に熱心にプッシュする人で、感動もの見るたび泣け泣けと言って自分も大泣きするんですよねー。けどそういわれたって、泣けない時は泣けないわけで。「泣けない自分」に対する自嘲とか、それを強いる父への面倒くささのせいで、結局興がさめるのです。だから『蛍の墓』も、見たくないんですよね。泣けなかったら辛いから。そういうのを繰り返すうちに、お涙頂戴に対して極端に皮肉な態度が養成され、隣が泣き出すと途端にさめるという天の邪鬼な性格になったということです。別に泣かないだけで、感動はしてますし、涙腺が固いだけでホントは半泣きです。けど俺より先に泣かれると、自分が「感受性の低い冷血漢だ」と糾弾されるような気分になるので勘弁してくれ……って、ずいぶんわがままな思いがあるわけです。