ご指摘どうも

こんなURLをいただいたわけです。

8人に1人が苦しんでいる!「うつ」にまつわる24の誤解

実に参考になるというか、わりとフラグ立ってるっぽいですね。フヒヒ。

 生き物として人間の中心にある「心」=「身体」に対し、進化的に新参者として登場してきた「頭」が、徐々にその権力を増大し、現代人はいわば、「頭」による独裁体制が敷かれた国家のような状態にあります。

 それに対して、国民に相当する「心」=「身体」側が、「頭」の長期的な圧政にたまりかねて全面的なストライキを決行する。もはや、「頭」の強権的指令に一切応じなくなる。これが「うつ」の状態です。(中には、過酷な奴隷扱いがあまりに長期間にわたった結果、「心」=「身体」がすっかり疲弊してしまい、ストライキというよりも、潰れて動けない状態になってしまっている場合もあります。)


 時折、というか部屋で一人でいると頻繁に起こるストップ状態は自然な反動であると捉えるものなのでしょうね。
 身体疎外の概念を以前小論文の本で知って感銘を受けたのですが、まるで実用化できていないようです。「身体を優先させなければならない」という「must/should」自体が意識の働きであるという矛盾が伴うので不可能ですね、それは。
この辺に書いてあるのはid:saltierが最近発見して楽しそうにしている人生観とかなりリンクしているというか裏付けている感じがします。

 おそらく努力とかで検索してくださったんでしょうが、第22回の【「努力」に価値を置く危険性――「ウツ」を生み出す精神的母体】はかなりの処方でした。納得が行くというかなんというか。


 努力至上主義は個々の選択の自由がかなり制限され、自己実現が許されなかった時代に、救いとして生まれた概念なのかなぁと思います。苦行を強いられながら、結果が伴わなかった人に対する評価は過程、つまり努力しかないですし。

 さっきのURLには

 子供が砂場で日が暮れるまで砂の城を作ったり、ゲームを徹夜でクリアしたり、エレキギターの練習に夢中になることは、周りからは滅多に「努力」と呼ばれることはありません。しかし、ことこれが勉強やスポーツのトレーニング、ピアノやヴァイオリンの練習などの場合には、たとえ本人にとっては「熱中」と呼ぶべき内実だったとしても、周囲からは一律に「努力」として捉えられがちな傾向があって、周囲の見方とはこのように当てにならない偏りを持っているものなのです。

 というような言い回しがあったんですが、誰かの過程が「努力」と呼ばれるのは、評価する他者がいるからなのかな。
(。さんが「成功者が努力してないって言うと気まずいよね」といってらっしゃったんですが、これ自体が努力主義の敗者救済的側面が感じられるような)

 ついでに。さんに単純な構図を求めて現状を居心地よくしたがってるように見えると指摘されたわけですが、おそらくおっしゃるとおりだと思います。鷲田清一氏の現代文がピンときたのも心当たりが多々あるからでしょう。


「『努力した』実感は自分の能力の限界と成果を引き比べることで大体は生まれる」なんて話もありました。孔子が「自ら限るべからず」とか言ってて真に受けたんですが、罠でしたね。能力を無限大と見積もっていれば常に結果には不満が生じるわけで。達成感とかあるわけないんです。それはそれで傲慢な態度ですね。

 生まれ持った資質にかなうことであればそれを面白いと感じ、資質の乏しいことについては苦痛に感じるように人間はできています。

という言を信じるとするならば、自分が楽しいことをやるのが一番いいのだということですね。



 そこを整理した上で、受験勉強ってのを捉え直すことにしようと思います。もう一度。