つかみそこね

実戦の後オフにしてあれこれダラダラしていたらオンにし損なってるような状態

…原因は同じなのだろうが。やれやれ

意識的な行為をし続けるのはしんどい。習慣がついてる人との差が明確にわかる。高校球児が輝いて見える。自他ともに認める努力ってのは素晴らしい属性だし、甲子園出場はその素晴らしい勲章だよな


最近は個人能力の限界を察するにつけて、協働の意義を感じることが多い。とはいえ自分は協働が健全な対等の関係になりうる条件("自分の仕事で全力を尽くす")を満たしてはいないだろ。まぁ形は変えても引っかかる点は努力になるわけで、こればかりはやらなきゃ仕方ないということなのだが。ここまでは自分の足跡だらけの結論。


受験勉強を完遂することによる自己実現に期待をかけていたが、いくら自分を信じ込ませたところで、「最終的到達点を超えるためにはどのような立ち位置でも全力を尽くさねばならない」という結論は出せない。
あまり言いたくもないが、自分にD判の人等と同等の勉強が必要とは思えない。まぁペリシテ氏でも本番はわりと際どかったとか考えると不安にもなるが、その不安は決定的なモチベーションにはならないようだ。模試の度にマターリしてるからな……
努力は本来比較不可能だが、受験勉強の場合は結局こなした勉強量に近似する。いくら質が違うとか嘯いたところで傍証を伴わない努力に価値は生じない。自分で認められたら主観的な価値を持ちうるのだろうが、他者の平均的な努力量を情報として持っている以上、それと比較は避けられない。平均より劣りながら、自らの努力を誇れるわけがない。当たり前だ。

なんだかんだでセンターまで150日切った。高3の200日弱において自分が一定量努力したと自認するにはどうすればいい?
しかし、努力するって何だ。俺は努力していると思いながらするものなのか?「成功」という結果そのものから類推されるような類か?「自分なりに精一杯やったが力及ばず」という清々しい敗北の境地が存在するようではあるから、そういうわけでもなさそうだが。

不思議なことに結果は出てるから、俺は受験勉強に努力してると思われてそうだが、そんなこと全然無い。……そしてこの"俺天才?"な状態が一番自尊心をくすぐられるから、切り替わらないのだという指摘を昔自分でやった気がする。実に下らない、嫌な奴だ。(てか敗北フラグBIN☆BINだよね)

常に漠然とつきまとう不安はこの醜さか?これを抱えたままでは心からの勝利はありえないように感じる。端から見て成功に見える結果には、自分の体臭が付着して偽になる。どこかにいる真の主人公が、努力を重ねて俺を倒しそうな気がする。謎な人生観だな。そんなもんではないはずだが。自分も含めて大きな劇の中にいるような意識をどうしてか持ってる。

今更、この時期に、違うとこでアイデンティティを確立しにいくのは、結局逃避と見なされる。結局は視線を受験に向ける。


あー、だから勉強してろって言うのに。こんなこと考えたくもないんだ、本当は。自己嫌悪なんぞしたい奴はいねぇ!そんなことで悦に入っても虚しいだけや



ブログやめるか。そうすりゃ他人の顔なんか気にしないですむしな