日本史のノート

日本史 高3‐1学期 期末テスト

1.元寇とその背景
(1)元にとって日本とは?
 1268年、モンゴル皇帝フビライは日本に朝貢を求める国書を送った。
 当時フビライ南宋への圧迫を強めていたが、日本と南宋は活発な私貿易が行われており、これが南宋を経済的基盤の一つになっていた。南宋からの主な輸入品は( 1 )であり、日本からの輸出品は( 2 )である。
 マルコ・ポーロの著書『東方見聞録』にも見られるように、中国の人間にとって当時日本は「(2)の国」であった。フビライは日本の経済援助を南宋から剥がし自分につけるべく、中国皇帝の文書としては異例ともいえる相当へりくだった国書を送った。しかし当時の執権( 3 )はこれを二度も黙殺。1271年、華北を統一し国号を元としたフビライは日本侵攻を決意するが、高麗での( 4 )などが原因で侵攻は( 5 )年になった。元・高麗連合軍は対馬壱岐に大打撃を加えた上で博多湾に上陸した。日本軍は集団戦法や「てつはう」に苦しめられ、えらい目にあったが、元軍はなぜか一夜にして撤退した。①この戦いこそ後に言う( 6 )である。
 南宋を滅ぼした後、元軍は再来したが、日本軍の抵抗により上陸は防がれ、暴風雨が重なったことで元軍は壊滅した。しかし②この元寇は幕府の衰退を加速させることになる。

問1.この戦いの後、幕府は元軍の再来に備えて行った防衛策について正しいものを以下の選択肢から選べ
ア:全国の御家人異国警固番役を課し、九州の防備に当たらせた。
イ:元軍の侵攻が予想される博多湾に石の防塁を築いた。
ウ:大宰府鎮西探題を設置し、九州の御家人を統率させた。
エ:大宰府の近くに水城を築いて防御拠点とした。
問2.元寇前後の御家人制の変化について誤った選択肢を選べ
ア:貨幣経済の発達により御家人間の格差が拡大し没落する武士が多くなった。
イ:元寇などに伴った奉公の増加によって御家人が困窮した。
ウ:分割相続により領地が細分化したため、長子単独相続が一般化した。
問3.蒙古襲来後より得宗(北条氏一門)の専制が加速してゆく。これについて
(A)(3)の次の執権で、得宗専制体制を確立したのは誰か
(B)彼が政権を奪取し専制を確立するに至る過程を説明せよ

○分割相続→女子・庶子一期分→嫡子単独相続
庶子の動向>
1.嫡子に仕える 2.守護に仕える 3.訴訟 4.独立or悪党化

ヤスモリ中心の御家人寄りモード(ex竹崎季長
安達泰盛vs平頼綱霜月騒動)→
内管領平頼綱が中心の御内人政権。ヤスモリ派復権で混乱→
頼綱vs貞時(平禅門の乱)→得宗専制確立。公平性は欠如へ

貨幣経済発展→金融業者(借上など)出現→没落する御家人も……
永仁の徳政令(年紀法に注意。御家人の土地は年紀法に従う。非御家人の土地は無視して取り返せる。結果、経済大混乱。御家人かえって窮乏。越訴、金銭訴訟禁止は翌年撤回)

○皇統の分裂(両統迭立)と幕府滅亡
後嵯峨上皇の死後分裂。持明院(後深草)vs大覚寺(亀山)【幕府の介入】
後醍醐天皇宋学朱子学)の「大義名分論」の影響。天皇親政を狙う
1324正中の変(失敗・不問)→1331元弘の変(失敗・隠岐へ流刑)
悪党は流通を押さえるなど幕府の権力は低下していた
1332護良親王が吉野で挙兵→楠正成ら悪党が呼応→後醍醐隠岐を脱出→幕府、追討に高氏を派遣するも寝返ってオワタ→1333鎌倉陥落。北条高時以下一門が自害し幕府は滅亡する

建武の新政
記録所(重要政務)、恩賞方(恩賞事務)、雑訴決断所(訴訟担当)、武者所(軍事)、鎌倉将軍府(鎌倉担当・足利直義)、陸奥将軍府(@多賀・北畠顕家)、国司・守護
知行国制度は廃止し、国司権力を強化。摂関も廃止。全て天皇権力強化に向けて!
1「綸旨万能主義」→年紀法を無視した綸旨による所領安堵⇒訴訟続発
2「恩賞の不平等」ex『尊氏無し』 公家偏重の人事
3「大内裏の造営」→無駄に負担。庶民反発
 武士・公家ともに不満高まる(ex.二条河原落書

南北朝分裂
1335中先代の乱北条時行軍鎌倉を占拠→尊氏「征夷大将軍」を要求し追討を志願するも認められず→無断で出動し鎌倉占拠。反旗を翻す
1336北畠顕家に負けて九州に落ちたりしながらも紆余曲折あって京都制圧→後醍醐吉野へ
建武式目室町幕府の樹立のポイント!政権運営方針
1338:尊氏、北朝から征夷大将軍に任命される
Q.幕府が京都になったのは?
A.主要メンバーが畿内出身。直義は東国政権構想を持っていた模様

観応の擾乱
「軍事」→尊氏・義詮、執事・高師直、新興武士層
「政事」→直義・直冬、保守武士層
南朝北畠顕家ら(弱体ながら思想的結託は強固)
☆国人(地方武士)の形成。一揆を作ってその場の都合で陣営を決める。
 直冬派の敗北とともに南朝は抵抗する術を失い、合一に向かう
天皇の権威は下がっているが、足利幕府の正当性は朝廷が担保するという矛盾

守護大名国人一揆
 南北朝内乱期に守護の役割増加
・刈田狼藉の取り締まり ・使節遵行権
1352観応半済令:近江、美濃、尾張三ヶ国のみ。1年。年貢の収穫の半分を守護がGET
1368応安半済令:全国無期限。土地を半分GET(下地半済)
☆際限ない守護による接収に歯止めをかけたとも見れるが……

☆鎌倉期:権限は大犯三箇条のみ。交替が原則
☆室町期:一国全体の地域的支配権確立。守護請などで国内の荘園も獲得(荘園公領制の崩壊)世襲制になり領主化。国人を家臣に組み込む。『守護領国制』の確立。
 一方農村では惣村が確立。村掟や沙汰人など決め自治的に。国人勢力と駆け引き。

○義満期での安定
☆幕府機構の充実
管領」:将軍補佐。斯波、細川、畠山の「三管領
「侍所の所司」:軍事の中心。山名、赤松、一色、京極+土岐氏
他にも「政所」「問注所(訴訟記録整理)」など地方機関として鎌倉府・九州探題など
・訴訟審理:名目上は評定・引付。実質は将軍・奉行人が行った
☆将軍権力強化
・康暦の政変:管領細川頼之を罷免し、独裁体制確立
・直属の官僚(奉行人)、軍隊(奉公衆)を保持。守護大名監視・将軍警備・各地の御料所に代官として派遣
守護大名の一族内の争いを利用して勢力削減
 ex.土岐康行の乱、明徳の乱(山名)、応永の乱(大内) 細川は残る
☆財源
・御料所から年貢
・高利貸しに課税(土倉役、酒屋役)
・交通要所に関所 →関銭・津料
日明貿易
・内裏造営時などは守護を通じて段銭・棟別銭も
 ◇貨幣経済で銭貨の税が増加。朝廷の課税権を接収

○義満の野望
1394将軍譲位 1395出家 →公武の権力を超越した立ち位置に
天皇家の権力・権威を接収
・公武の官位叙任権 ・祭祀権 ・改元皇位継承に関与
1401明から「日本国王」に冊封される →天皇家を超越した権威獲得
1408義嗣を親王待遇で元服させた10日後にポックリ
 →幕府が方針転換(守護大名の影響)

日明貿易
・14cに前期倭寇。日本人・朝鮮人の貧民中心の海賊
1368明。当初はカネヨシ親王日本国王に。後に義満がGET。「勘合貿易」の開始
輸出品:銅、金、硫黄、刀 輸入品:生糸、陶磁器、銅銭
4代義持は臣従を是とせず貿易停止。6代足利ヨシノリが再開
応仁の乱後は大内氏細川氏。寧波の乱後は大内氏が独占したが、すぐに大内が滅んで乙。


 需要不明