用語の問題だわ

tkがあれこれ書いていたのでinspireされて書いてみる。


『障害』とは「社会のスタンダードに反していて、社会生活に悪影響を及ぼす先天的特徴」だと僕は定義する。
 交通機関とかが「歩ける」人を前提に作ってあるから、「歩けない」って欠点が『障害』になる。「認識能力がある」人を前提に作ってるから、「認識能力が無い」って欠点が『障害』になる。
 角が立つから言われないけど、差別も同じようなもので、みんなが同性愛を排斥して、結果同性愛者が社会生活で不便をきたすなら、「ホモ」は『障害者』といえる(性問題は身体と精神にまたがってて、「精神/身体」の二元論で片付けられないんだけど)1960年アメリカでは「黒人」は生まれつき肌が黒いせいで靴を試着できないなどなど、要するに『障害者』。


 基本的に今の世の中では、心身は明確に区別され、人間の値打ちは身体的(先天的)なものじゃなくて精神的(後天的)なものだと考えられてる。「人間は生まれつき平等」って題目上、「先天的特質」なんてのは絶対認めちゃダメなものだ(そう上手くはいかないけど、少なくとも知的階層で「アイツ顔が悪いからアカンわ」なんて発言は認められないだろう)

 社会的には「人間の評価」は主に経済的価値に換算される。ホントはその人の努力とか人格とか、そういったものが評価されなきゃならんのに、「障害者」ってのは「身体的特質」によって評価が下げられている。アンフェアだ!
 そこで「本来彼らが受けるべき報酬を補填してやろう」というのが従来の福祉だったりしたんだけど、本質的解決じゃない(現象面では「身体障害者モラルハザード」など)よねー、ってことで、「バリアフリー」とかそういう感じで「社会生活における身体的差異の影響排除」というのが進んでいるんだろう。

 とりあえず言いたいのは、俺らが「障害」だと認識しているものも、社会的に定義されたものにすぎない。先天的なもので不便を被るという点では「不細工」も「下戸」も変わらないわけだから。というかむしろ、障害と対になる『健常』という概念そのものが相対的な「合意」にすぎない。んなわけで健常とか障害とか、そういう語を用いた議論はpracticalな時にしか使えん。


 何度も同じことを言ってるだけになるが、要するに「障害」という言葉が無くなればいい。少なくとも自分の頭の中に「障害」って単語が浮かんだ瞬間に振り払えばいい。車椅子の人を見れば「歩けない人」なんて語で表現するだけで。
『平等』って言葉自体、何かスタンダードを置く語だ。これもダメ。立法だのなんだのといった具体的に対策打ちたい時には有用かもしれないが、個人の場面で接する時には不要だろう(大体先入観が多彩すぎて使いたくない)

 うーん、結局、なんだろ。まぁ実際問題としてどこまで、こうやって理屈で割り切れるかは微妙だけど。なるべく抜けていかなきゃならんよな