弦楽

 右半身は怠惰、左半身は潔癖。右脳では出来ないと思ってるくせに、左脳では贖罪的に完全志向
 俺は踊るされど進まず。でもまぁ1歩1歩最短距離でいける奴もいない。10歩進んで9歩下がる。19倍の労力でもいいや。前に進むだけでも大したものだ。ところで前ってどこ?

 自分が嫌いな自分が嫌いになる思考パターンが戻ってきてしまったか? 前向きになったり、回転したり、ややこしいな自分。人間は開放系なんだ。ミクロコスモスだ。近代のフレームワークに囚われてしまうのはスノビズム的に害悪だ。衒学高校生として許されない。まぁあれこれ考えてることも藤原基央的に言えば「えらい頑丈に作っちまった自前の手錠」ということにしよう(平安貴族なら白楽天の詩を引用するんだろうな。1000年前の人間の思念が今の高校生の精神衛生に直に害を与えるとかないわーw)

 自嘲気味に言ってるけど、衒学ってのも見苦しいもんだ。楽しいけどさ。でもいいや。人間は全てを貶す語彙を持ってるんだ。素晴らしい。「衒学」とか「教養」とか表裏一体だ。というか「衒学」とか「発言する人間のスタンスを規定する、ポリティカルコレクトネスに反する語」で自分を否定しても仕方あるめぇ。だって絶対当てはまるし。「ちょっとした学をひけらかして誰かに感心されてうれぴー」ってのは多分欲求階層の3段目かその辺のもんとしてどの人間にもあるんだ。検定教科書が載せてる権威の面々も衒学者だったかもしれないじゃないか。でも必死こいて「下賎な快楽」を人に見せないように研鑽/糊塗したんだろう。そしたら「おお、素晴らしい人格者!」って崇められていくってことになる。いい塩梅だなぁ

 自分をアイデンティファイしてる先天的な共同幻想を解体してみる。オッサンがすがる道徳に蹴りを入れて足痛めたり、日本的無宗教を検索してみたり、新興宗教を小馬鹿にしたり崇め奉ったり。そんなことしてる自分の「理性」とやらを蔑んだりして遊ぶ。共同幻想で火遊びする自分が常に共同幻想に囚われる釈迦の掌的な構造。純粋理性は確かえらい学者さんが批判したらしいから仕方ないのかな? なんて諦める大衆的な権威主義。自信と行動の伴わなけりゃ反骨というより単なる現実逃避。これもまたぽりてぃかるこれくとねすに反した用い方。自分のフェティシズムだの勝手に設定された分節。しっかしフェティシズムとか分節とか、まさに「楽しい衒学語入門」。ラジオで放送できそうだなぁ
 そんでまぁこんな構造的自己嫌悪をシミュレーションするのも、僕としては楽しかったりするのでしょう