ノーマライゼーションに対する困惑

小論文を学ぶ―知の構築のために

小論文を学ぶ―知の構築のために

 題自体は小論文の参考書だが、実際の内容は文章の書き方よりも「近代的<知>への批判と反省を経て生まれた『新たな<知>の体系』」の紹介になっている。俯瞰的によくまとまっていて、僕らが囚われている「現代の問題を引き起こしている価値観」を意識するためにとても有用な本だと思う。あまりそういうことを考えたことのない人にとっては、定価の10倍以上の価値があるだろう。オススメ


 で、そこに『共生社会』というような項目があって、ノーマライゼーションや差別について書かれている
「老人、障害者といった『社会的弱者』に対して『同情』し『憐憫』し『援助』する」というのは、ノーマライゼーションの立場からすると間違いだという。『弱者』だという判断を下すこと自体が、差別意識の裏返しであり、『強者/弱者』という近代的な価値判断に裏打ちされているらしい
 「思いやり」も「共感」も、二元論から来る「中心化」の発想、つまり「五体満足でヘテロセクシャルで……」といった『フツウ』を中心にし、それ以外を周辺、すなわち異端とする発想に囚われているものではないか? と疑問を投げかけられる。そもそも「道徳観」自体が、近代定着した個人主義のブレーキ(社会秩序維持の装置)として、強調されてきたものだと筆者は述べている。「近代の枠組みで、近代の不具合は解決できない」というのが筆者の確信として伝わってくる
 筆者に言わせれば「ボランティアのやりがい」と問われ、「いやぁやっぱり、突き詰めたら自己満足なのかもしれないですね」とか答えるようでは『近代』だという。まぁこの本自体が『近代』と『超近代』を『二元論』の枠組みで処理しようとしているのは表現の都合上ご寛恕いただきたいってところだろうか(なんだかんだ言って「近代」に漬かりきった高校生を対象としている以上、「超近代」の方法論で説いても理解を得られないだろう。「対比」という方法論は単純に近代の産物とも言いがたい。ん?「二元論」と単なる「対比」の違いは何だ?善悪対比はゾロアスター教の時代から存在するわけで……?んー。用語の定義の問題だろうか)


 まぁごちゃごちゃ書いてるのはともかくとしておいてだな。なんだろうか、ノーマライゼーションを自分の中で体現するのは異常に難しい。というかまだ心の中で原理原則が定まりきっていないのだが……
 具体的に考える。ex.ホモセクシャル。僕は同性愛者であることを哀れむのではなく、彼らが受けた不当な迫害とその痛みを「自分だったらどうか」と想像して、気の毒に思っている。これは間違いなのだろうか? どうなのだろう。おこがましいのか。カンダタ蜘蛛の糸を降ろす釈迦のように傲慢な態度なのだろうか。わからん。わからん。マジわからん

 自分が当事者マイノリティでない限り、何をやっても傲慢の批判を逃れられないような気がしてしんどくなってきた。想像力を働かせない連中が適当に批判してるんなら気にもしないけど、当事者に対して自分の思いが蜘蛛の糸的なものに映るかもしれない、とか思ったら、本当に心が軋みを立てる。考えれば考えるほど、ヤケクソに走りたくなる。ちょっと否定されたくらいで何言ってんだって気もしてくるけど
 論理の問題? 観点の問題? 実効性の問題? F**k!ああホントに思考が落ち着かない