かき回していって何もなくなってしまえばいいのだ

Q.教養とは何か
 →実用的なものを消していった時に残るもの?
 →指導的立場(エリート)に不可欠なものらしい

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

↑現在読んでいる本

 教養主義は「ぼかぁただの秀才じゃねぇんだ!」っていう受験勝者高校生の心の叫びで成り立ってきたというのが根本的な観点。教養とは「いかに生きるか」であるとか、色々な教養論があるけど、それを展覧する“教養論論”という形。タイトルをはじめ、皮肉が好きである
 自己の鍛錬を目的としてる割に、それが他人があって初めて成り立つのが教養の変なところだとか云々
「他人と違うことをしたい」という思いは自分で強いけど、個々で言う『他人』とは一体何なんだろう?
→「深く物事考えずに世の中うまくたゆたう人々」
 じゃあ物事深くってどういう方向?
→「教養が深そうな感じに」
 教養って何さ?そんな確かな価値なの?それ自体が手垢だらけだったりするし、ナンセンスなんじゃないの?
→「……俺はゲーテニーチェみたいな『教養的なものを知る』ことじゃなくて……誰もがその深みを認めるような『教養』、人格、そういうのを手に入れたいんだ」
 結局「他人の承認」なんだ
→「それはそうなんだけど……うーん」 ←今ココ

……それにしても僕は自己批判が好きらしい。それが知性の証だと思っている節もある。この本でさらっと触れてる限り、丸山真男的な教養の定義は「自己批判できること」らしい。案外自分に感覚的に身についている教養観は古臭いものなのだろうか?
「自分」って何だ? とか簡単に答えられたらカッコいいんだけどな。とりあえず「君は社会のために何が出来ると思いますか?」ってぐらいは答えられた方が、社会人になったときは身のためだろうな
 しかし最近、自分の悩みとか葛藤とかは、ホント昔の人もやってきたんだなぁー……と、ひしひしとひしひしと感じているわけで。嗚呼、しばらく本に身を投げ出そうか? そしてこんな感じの「受験勉強蔑視」自体が、実に典型的であるということが、苦痛なわけだな、これが



 嗚呼、クソ、無性に叫びたい。焦燥、無力、混乱、最悪だ