文末

 古文をやっててふと「昔の人はこの文章で思考してたんだろうか」と思ってあれこれ例文を考えたけどやっぱり無理だった

 構成の文法研究者は「べし」に何個も意味を分けて、参考書にのっけたりしているが、英語と一緒でネイティブは適当とか推量とか当然とか無意識に使ってるわけで、「べし」には何らかのイメージ(現代人には想像もつかない、彼らの経験から来るもの)がつきまとってるんでしょうか。ソシュールなりなんなり記号学なりをもっと研究して、こういう話をきっちり分かりやすく語りたいなあというのは一つ将来の夢です

 最近は夏目漱石とかの漢文調とかがうらやましいなぁと思ったりします。文末表現が豊富でリズムを作りやすいので。現代語には「たり」も「なり」も「べし」も「り」も係り結びもないからねぇ。この文章でも、ですますとか疑問で切ったりとか倒置とか詠嘆終助詞とか体言止めとか使って「た」やら「ます」の連続を避けてるわけですが、やっぱり文末表現の少なさはネック。今時575で基調を作っても古臭くなっちまうだけ。心地よい文章のリズムをどうやって作るのか、なっかなか難しい技です。作家に尊敬

 俵万智が頑張って日常語で短歌作ったりしてたわけですが、未だに俳諧などが漢文・古文調で詠まれるのは、単に保守的だからとかじゃなくて、やっぱりその方が短い語数で意味とリズムを作りやすいからなのかな。優劣なんてつけれるもんでもないけど、少なくとも俳諧とかには向いているのかもしれない


 古文はいらんだろとか思ったりもすることは多々あるし、平安の難解な文章とかで苦しんでいる時は死んだ作者に殺意を燃やすこともしばしばとはいえ、やっぱり明治とかの堅い文章の味わいをゆかしく思ったりもしたり。試験には出ないけどな!