社会学入門を改めて

表紙の裏の紹介文から

「人間のつくる社会は、専念と言う単位の、巨きな曲り角にさしかかっている」――転換の時代にあって、世界の果て、歴史の果てから「現代社会」の絶望の深さと希望の巨大さとを共に見晴るかす視界は、透徹した理論によって一気にきりひらかれる。初めて関心をもつ若い人にむけて、社会学の<魂>と理論の骨格を語る、基本テキスト。

 人間の本体と考えられている「意識」、「精神」の実質は言語であり、言語は関係の中でしか存在しない。フロイトが「超自我」と名づけた「良心」とは、自分の中に入り込んでいる他者の言葉。ランボーマルクスは「自己とは他者である」と言う意味はここにあるという。身体でさえもミトコンドリア大腸菌、各細胞など、生命の共生体であり、関係の産物。
 となると生物学的に「どこから意識」とかいうのは非常に難しい問題なのだろう(こういうことへの関心が自分に生物を選択させたのだろうが、そのことを忘れて寝ぼけていてはいけない)

  • 問題に対して純粋である限り、あらゆる越境は許される

 「社会学者といっとけばなんでもできる」という風に言われる。社会学を「越境する知」と筆者は定義する。しかし越境は手段であり、なんら目的でも誇示するところでもない

  • 余談:「全部最初から!」

 一度か二度かはこれまでやってきたことを全て捨てて、新しく出発しなおす、くらいの気持ちで新鮮に再構築を行うと、スカッとしたいい仕事ができるとか。大胆に捨てたものは、必ずどこか見えないところで栄養になっている

  • 社会の四類型

個々人の自由な意志によって主体的に形成される社会(対自的)↔個人の意志とは無関係に客観的に生まれる社会(即自的)
個々人の人格的な関係として存在する(共同態的)↔特定の利害関係などに限定された非人格的な関係として存在する(社会態的)

この組み合わせによって四つの類型が生まれる
①即自×共同→共同体(community):伝統的な家族共同体、村落共同体など。自由な意思選択以前に「宿命的に」全人格的に結ばれている
②即時×社会→集列体(seriality):市場における個々人の私的利害に基づく行為が、最終的にどの当事者の意思からも独立した客観的な「市場法則」を実現してしまう場合など。個人の選択意思がぶつかりあい干渉しあい、最終的にどの当事者にとっても疎遠な「社会法則」を生んでしまうというもの。「神の見えざる手」など
③対自×社会→連合体(association):会社・協会・団体など、個人の自由意志によって、けれども人格的(personal)な結合ではなく、特定の限定された利害・関心の共通、互いの相補性によって結ばれる。「契約」「規約」による「ルール」の設定とその遵守によって成り立つようなもの
④即自×社会→交響体(symphonicity):個人が自由な意思において人格的に呼応しあう形で存在する社会。「コミューン」的。ぶっちゃけ「いつもつるむ友達同士」みたいなもの

 軸をとってマトリックス的に整理すると面白い。当然全てが綺麗に分割されるわけではない(会社内での交友関係は連合的であり、交響的……など)

  • 「社会」という言葉の感覚

○日本:「社会の荒波」「冷たい社会の風」など、「世間」という言葉と一致する部分が多い。「世間」は『共同体の外部』
○ヨーロッパなど:「仲間」「共同」という原義に由来。社交界・協会・会社という語義を持つように、元来「内部(仲間内)」を指す語だったものの、徐々に集列体的な意味を持つに至り、その段階で日本に輸入された

  • 自明性の罠

 「そんなこと当たり前だろう」と全く意識しないで思っていること。それを打ち破らねば社会学はできない(特に筆者の専門である「比較社会学」においては)
 簡単に言えば先入観を持つな、ということなのだが、「先入観だと思ってさえいない」のがほとんどであり、それが「自明性の罠」というものだろう。「空気がある」ということとか
 比較社会学の意味は「自明性の罠からの解放」だという。カルチャーショックを受け続けなくてはならない

  • 時間を「使う」近代

 近代では時間は「使う」「費やす」「無駄にする」もの(Time is money!の精神)一方、インドの片田舎に行ったら通じない。電車が一時間遅れ、さらに二時間遅れ、挙句に運行取りやめになっても、みんな淡々としている。
 「午前中のどっか」で一本、「午後のいつか」に一本来るようなバスを、みんな楽しそうに談笑しながら待っている。彼らにとって時間は基本的に「生きる」ものだと筆者は言う。
 businessはbusyness、「忙しさ」。「忙しさ」の無限連鎖
 近代合理主義の定義する「無駄」の中に、人間として、言葉にできないけれど大切なものがある。個人に向けては言い古されたようなことだが、それは社会や文化などにも当然あてはまる。

(こういう気持ちにやけに共感する時は、疲れている時なのだろうか?僕は現代日本で生きている人間だから、あまりそんなこと言ってるわけにはいかない。なんとなくサウスバウンドを思い出したけど、「ユートピア」は切羽詰まった時まで、どこかに置いておこう)

「比較」は他者を知ることで、それによって「自明性の罠」から解き放たれ、想像力の翼を得るという、生き方の方法論の一つであり、比較社会学はこれをどこまでも大胆に明晰に展開していくもの



寝ないと明日こたえそうなので、今日はここで打ち止め。また明日