ユートピアって何だろ

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奥田英朗はテレビドラマで『空中ブランコ』(阿部寛がトンデモ精神科医を演じていた)を見て爆笑し、原作を見て名前を覚えた。正直僕が名前を覚えている作家は少ないので(最近は「誰が書いたか」って実はとても大事なことを知り、なるべく覚えるようにしているけど)稀有な存在ではある。

サウスバウンドは3年前に発刊された本なので、ちょうど読むにはタイミングが微妙に過ぎてる感じがする。とはいっても直木賞作品だけあって、文庫化、映画化と調子よくやってきている。そうメジャーじゃない頃から知ってる作家が活躍するのはニヤニヤと笑えてくる面白さがあっていいものだ(映画版は10月6日公開で、主演は豊悦。キャスティングとしては『なるほど』って感じ)


奥田さんは人の苦悩とか不幸をドライに、一歩離れて描いている。精神科医シリーズの魅力も、あれやこれやって悩みを、伊良部先生のマイペースな生き方で「どうでもいいや」って思わせて微笑ませてしまうとこにあると思う(というか今思った)
苦悩だの不幸だの、何だかその輪郭を触りまくって、やけに観察してしまう自分にとっては彼の本は格好の処方箋なのかもしれない。親父の破天荒な生き様は決して文明的じゃないし、知的なものではない。だが、文明的で知的なのって、一体何なのだろうか?相手の力量を計って、「コイツには勝てるな」とニヤつくのが都会的なのか。周りの空気から外れないように流行に食らいつき、他人に必死でメールを送るのが、人間なのだろうか?
ありきたりな概念ではある。「自然志向」なんて、言い古された概念だ。でもこの本は「都会的自然派」をも批判してしまう(地元環境団体批判)僕がこの本が「すごい」と、これまで読んだことのない本だと思ったのはまさにここだ。親父は共闘を申し込んできた地元の環境団体に、「人権も環境も、運動のための運動だろう。内地の人間が勝手に南の島に憧れて、自分探しで環境保護運動するのは迷惑だ」と喝破する。親父は「環境」だの自然と資本だの、そういうものではなく、ただ自分のために、ホテルの開発と戦ってるだけなのだ。そこに思想も、主義も、他人も、世間も、何も入らない。それは個人による純粋な戦い。
「究極的な自己中心主義は独善ではありえない」、僕が中三ぐらいのときに考えたことだ。それが何か裏付けられた気がする。他人に危害を加えることだけが、自己中心ではない

この本は自然派だとか環境派だとか、そんなものを超えた究極の個人を描いている。お題目のような「人間らしい生活」なんてのではなくて。この本が輝いて見えるのは、個人の心の中に築き上げた楽園の輝きだと思う
ありきたりな結論にはなるけれど、世間様の常識、敷かれたレールのその先に、真の平安はあるのだろうか?現実から逃げたいわけじゃないし、僕に親父のような生き方はできないだろう。ただ、僕の人生はどうも、この世界に自分の存在を示してやる、というものではなくて、心の中に自分の宮殿を築き上げるようなものみたいな気がする
視野が狭いかもしれない。夢が無いかもしれない。Mottainaiといわれるかもしれないし、他人からバカにされるのかもしれない。
ただ周囲というものにいささか疲れた時に、この本に出会えたのはいいことだったと思う
今まで自分の人生のビジョンが決まらなかったのは、「自分の心が豊かであれば、それでいい」って、そういう考え方を自分で否定していたからなのかもしれない。もったいないだの、それは許されない……って
そうなった時、僕に何が必要なのか?ゆっくり考えよう


「ブログで書評を書く」と言って、長い間小説を読まなかったので、あまり書く機会がなかった(宗教の本とかも読んだけど……)が、書いてみてよかった。続けよう。と言っても、後半どう見ても感想文なんだが……
現世利益が輝かしく見えるのも事実だけど、僕の行く先は本当にそこにあるのだろうか?ただ金銭的な限界があって自分の心が圧迫されるのはあまり嬉しくないし、社会への貢献が自分を豊かにしてくれるのかもしれない。とりあえず稼がないといけないだろう。本当に自分だけの聖域が作りたければ、親父のように自給自足をしなければいけない。ただ地球上のどこに、そんな場所が残っているんだ?

Sanctuaryを辺境に求めるか、遥か高みに求めるか。辺境へ飛ぶことも出来ず、高みを目指す度胸も無い半端者。僕はどこへ行くのだろうか?


上の文章をある程度補完できるようにあらすじを書いてみたけど、ネタバレだらけなので伏せました


過激派の伝説の闘士である上原一郎。その息子、二郎の視点で描いた物語。一郎の子供だから二郎とは豪快なネーミングだ
二郎は小学5年生。母、姉、妹と東京中尾で暮らしている。親父はフリーライターと言っては家でごろごろしており、年金の催促屋や二郎の担任をとっつかまえては、過激思想まみれの天下国家を論じようとしまくる厄介な親父
第一部は東京での話であり、二郎が悪友・黒木との関わりで暴虐の中一・カツに執拗につけ狙われてしまう。中一の癖にヤクザばりのすさまじい、妥協の無い悪党っぷりを見せつけるカツ。カツに言いように下働きさせられ、意地でもそのことを認めようとしない黒木。二郎は自分の母の醜い過去を知ったり、姉の裏面を知ったり、初めて知って訪れた母の実家のセレブっぷりにショックを受けたり、300ページぐらい悩み多き小学生だ
普通の小学生に抱えられる重さではないが、突拍子も無い父親の存在から出来た性格か、不安に壊れることもなく、やけに冷静に物事を見れている
そんな中、父親の過激派時代の後輩・アキラが上原家に転がり込んでくる。飄々としていて面倒見がよく穏やかなアキラ。父とは全く違う彼に二郎はなついていくが、アキラは二郎に打ち明けられない任務があり、二郎はうすうす勘付きながらも、アキラを利用しつつ、利用されている
「子供ってこんなに冷静か?」と思うが、自分を振り返ってみるとやっぱりこのぐらいのことは当時でも考えられた気がする。「大人が思ってるより子供はよく分かっている」というのは、なんら間違いではなかろうな。納得がいく範囲で大人びた小学五年生。一人称小説では、表現や性格のわずかな違いが語り部の印象を変えて、物語全体を解釈や印象を変えてしまう危険性がある。この心理的な要素の多い、家族小説を書ける力量は俺には到底なさそうだ。二郎がもう少しキャラ立ちしていたら、……まぁ十分だろう。それ以上に親父が濃いし
第一部は親父の過去から今への変化がなぜ起こったか(国を憂う左翼の鉄砲玉から、一転無政府主義アナーキストへの変化)読者が気になっていたそれが明らかになって終わる
全体に悩み多き第一部だが、様々な解決を通して、後半に向けて徐々に目の前が開けていく。全部引き払って、親父の故郷・沖縄にすっ飛ぶ、という場面にも「逃げる」という惨めさは無い。徐々に救いの兆しが最後になって表れだしていくからだろうか?とはいえまだまだ色々としこりが残ってはいるが


第二部は飛んで西表島。東京にいるのをやめた上原一家は西表島へ行く。アキラも親父も沖縄・八重山の出身で、親父は八重山における反骨の英雄の血脈であるらしく、やたら周りの人らが親しく世話をしてくれる
石垣島の長老・サンラーの斡旋で、西表島の空き家に住み込むことになった上原一家。親父は人が変わったかのように野生に目覚め、生き生きと働きまくる。電気は発電。水は井戸。そんななんもない生活に戸惑う二郎だったが、自然に魅せられ、都会的な気をもむものの何もない生活の中で、次第に幸福を感じていく

やたら親切で鷹揚な村人、5人しかいない小学校。西表島の人々、生活に徐々に慣れてきて、都会に一人残っていた姉も戻る
しかし、幸せは長くは続かなかった。上原家のある土地は、リゾートホテルの建設予定地だったのだ。業者や癒着した議員という敵を見つけた父は、自らのユートピアを守るため、全面対決の構えに出る。許せないものに真っ向から、たった一人であろうとぶつかりに行く親父。その姿は二郎の、そして周囲の胸を打ちはじめる。親父の個性的なキャラクターはマスコミに大うけし、事件は大きくなるばかり。強引な手ばかり使う業者、キタナイ議員、自分らが注目されないことに苛立つ地元環境団体などなどを向こうに回し、親父は大立ち回りを繰り広げる……

印象に残った言葉

「世間なんて小さいの。世間は歴史も作らないし、人も救わない。正義でもないし、基準でもない。世間なんて戦わない人を慰めるだけのものなのよ」

そして騒動の後の二郎の言葉

父は国民の目にどう映ったのか。憎まれはしないが、同情もされていないだろう。二郎は冷ややかな見方をしている。警察や企業に盾突く一人の男を、痛快に感じ、面白がりはするものの、わが身に置き換えたりはしない。テレビの前の大人たちは、一度も戦ったことがないし、この先も戦う気はない。戦う人間を、安全な場所から見物し、したり顔で論評する。そして最後には冷笑する。それが父以外の、大多数の大人だ。