不自由なキータイプ

 mキーが打てなくなっているので、文章がワリと不自由になる。「山」を打とうと思ったら「山麓」を打ってバックスペースしないといけず、「思ったら」は「思考ったら」と打つことになる。
 ちなmiに「m打ててるやん」ってのはCtrl+Vって奴です。




 それはさておき、学校でちょっと喋ったりして多少楽になったので、コmeントmo踏maえつつ。……いやふざけてないっすよ。時々どうしてmo打てない字があるので


 saltierに指摘されたとおり、考えることが自分の長所だと思ってはいるんだよな。自分で言うなという話だが。実際言うほど出来てないし、役に立ってないし、生産性が低いけど(全てが生産性に帰結されるのは資本主義的だよね!というような衒学的カテゴライズが趣味なのでしょう)
 考えることはワリとアイデンティティの核なので、呪縛に近くなろうと放棄できない。こういう自虐的なことでさえ、順を追って考えているというだけで、どこか楽しさがあるのは間違いなくて。ドラッグ的?




 ちょっとずつ解読していく。箇条書き。



・努力コンプレックス
 親に努力しろ努力しろ努力しない奴はカスだと言われてこの方十数年になるが、自分が何か努力した実感は特に無い。得た物はそれなりにあるのだが、それが自分の努力の結果であるとは思わない。天運に近いだろう。
「人生で何か必死でやった経験が人間大事なんだよ」と言うのが呪いのようにのしかかっていて、常々そんな機会を探しているし、受験にだって期待したが、どうやらそうmoならなさそう。


・努力とは、苦しい物である。忍耐である。継続である。
 全部無いんですよね。瞬間的なことは出来るけど。
 基礎的に必要なことらしいのでそれが欠けているのは常々負担。


・努力は将来への投資である。
 今日の夏期講習であった鷲田清一氏の文章で「アイデンティティ単一信仰の危険性」とかについて書いてたけど、ワリとピンとくるのはあった。
 近代国家の形成以降かなぁ、そういうアイデンティティの単一化。改名習慣が無くなったのは多分そうだろうな。
 あと努力の称揚っていつからなんだろう。将来への投資って発想が資本主義的だし、強調されるのは近代以降なんだろうけど。ん、雑だな。別にそんなことどうだって構わない。
 将来像が明らかならば自然とそれに向かって傾注できるかと期待していた時期があったが、そんな簡単なことではないという認識が最近。
 とはいえ基本的に引っかかりの主要因は受験勉強なので、それに対しては必ずしmo一心不乱の努力が必要ではなさそうなのは前述。そう思ってしmaったら仕方ないだろ。
 努力それ自体をmoく的化して努力する為に努力できるほど自己暗示に弱い性質ではない(ていうかそんな奴いねぇ)
 何らかの別の動機付けを探すのか、より高位を志向するかになるのか?
 


 要するに「自分は努力できるんだ」と納得したい、というのが根本欲求なんでしょう。


・努力とは、結果とは独立して自他とmoに評価される。
 いや、これは言い訳やな。自己弁護に使用される「ベストは尽くしたのですが」だ。
 努力が他者によって承認されるのに、当人の主観は関係が無い。その人が行動し、精進しているという印象を与えれば評価はされる。

・受験勉強における努力は、ある程度の範囲は数的評価が下せる
 かけた時間、こなした量、色々な部分で差が出来る。
 ただ数的評価は体面の為にすぎんだろう。努力を評価されたいなんてのは子供っぽい欲求に過ぎない……されたことないんだけど




 なんかなー、ありがちな「生きてる実感が無い」とかいう自分探しな話になってるような気がするなー。ていうかただのminorチェンジに過ぎんような。
 結局、きっちりしたmoku標があって、前進してて、日々が充実して感じれりゃ、それできっと納得いくんだろうな。
 そんなのってありえないのかな。多分どれだけやったって、究極的な納得なんてありゃしないんだ。それなら何が、自分を許せる決me手になるんだろうね。一度だって許せたことが無いのに、分かるはずがないか。

 他人の足引っ張らない程度でいいか。主観的な決定はあきらmeて、外的な規定に丸投げしようか。それでいい気がするな。自分で自分を追いこんだって仕方ないって先輩にだって言われたしな。



「意味」を考えない、なぁ。そうだね。どうやったって、そこを考える時は常に、自分を呵責する発展礼賛なFrameworkになるんだからね。行動の意味を考えるってのは、現在的な損得を計算するのと同義に近いしなぁ。そこを問い続ける限り、結局「建設的」なことしか出来なくなるんだ。


 あー、気分悪っ。後で攻殻見よかー