日本語でいいじゃない(かきたし)

 文科省が学習指導要領案に「高校の英語の授業は英語で行うのが基本」と明記してプギャーされてますね
 立案者はそれが実現できる程度の人材が揃った名門高出身ばかりなんだろうか。それかたまたま有能な英語教師に教わったのか。うちは相当な進学校ですが、残念ながらうちの担任はネイティブに「What?」連呼されるレベルのカタカナ英語なんです
 英語で授業!やる気のある有能な教師、やる気のある有能な生徒、理想の学校なら実現可能でしょうけど。一部の私学ならいわれる前からやってそう。岡田山の女子校とか


 まぁまだ案だし「基本」だし、誰もが無視決め込んで雲散霧消するんだろうけど
 不登校のヒキヲタが「年収1000万以上、ロリ体型のDカップ以上で、思いやりがあって優しい料理が得意な美女と結婚できれば理想」と言ってるような痛さを感じてしまう官公庁。高学歴が頭集めてどうしてそんなことになる。一体どういう雰囲気なんだろう、この立案部署。気になる


 「授業の英語化」は何が最大の目的なんだろうか。本質的には
 英語圏とのコミュニケーション能力を高める。それが必要なのはわかるけど、同時に海外への門戸解放作戦しないと仕方ないんじゃ。要するに生徒に海外の存在を実感させるというか。資金的に難しいんだろうけど、関心が無ければ何も身につかない。凍土に種をまいても意味ない。
 今の学生に英語のオーラルコミュニケーション能力を付け焼きするのは、料理人にカンナを研がせるような違和感がある。確かにいずれ使うかもしれないけど、どうせ使うときにはまた研ぎ直さなきゃならない。大体使う機会がないじゃない。砥石も粗悪品ばかりだし、研ぐ時間も足りないだろう
 国が将来のために国民に英語コミュニケーション能力をつけさせたいのだとしても、やる側が個人的に英語が必要だと思わない限り、結局定着しない気がする。建前で身につくものでもないっしょ
 ほんとに英語を身につけさせたいなら、必要性の感じさせ方にもう少し工夫すべきなんじゃなかろか。国にできる形では限界なのかしらん。教室を薄っぺらなカタカナ英語で溢れさせても、馬鹿馬鹿しさが募るだけだろうなぁ



 「受験英語」が嫌がられるのは、結局「虚しい」からじゃないのかな。多くの日本人が6年間英語勉強してその時間を惜しげもなくドブに捨てるのは、結局伝える相手もいなければ、伝えてくる相手もいない、そんな虚しさにかられてかもね
 僕が英語をやってるのも「大人」な打算であって、心の底からの知的好奇心はない。虚しくて馬鹿馬鹿しくて腹立たしくてノイローゼになった時期もあったぐらいだから

 コミュニケーションって相手がいるから意味があるんだろう。ということで「教室をコミュニケーションの場にする」と文科省はおっしゃるが、日本語ネイティブの教師となんで英語で喋らなきゃならんの?全身を無数の蟻が走り回るようなむずがゆさに耐えて、日本人教師とカタカナ英語でコミュニケできる人間がいたら、額にMと書いてやろう。ベジータみたいに。教科書の「Let's talk!コーナー」みたいなとこにある例文を利用して教師とおしゃべりしてみよう!なんてこと、シラフで出来たらそいつぁきっとニュータイプだ。健常者同士が手話で話してたら不気味だろうに、教育という名のもとであれば、その奇怪さは許されるんだろうか?


 結局のところ、生徒の頭をひっつかんで英語イラマチオしても、コミュニケーション能力はつかないと思うんだ。椅子に拘束されて、いきなり指されて"Hi lough-maker! How do you think about the attitude of BIG3?"とか聞かれたら発狂する。50人の注視のプレッシャー下では"I want Obama to fuck'em out!"と言えるか言えないかぐらいだ。とても例文を利用して構築している心理的余裕なんて無いだろうな。羞恥心と教師への逆恨みが残るぐらいじゃねーのか
 必要に迫られるか、個人的にヤル気にならない限りスピーキングは上手くならない。中途半端にもどかしさだけ与えても、嫌な思い出を作るだけだ。英語から離れたがる日本人は結局、文科省が教えた英語で嫌な思いをしてるんじゃないのか?
 大勢は喋れない。別にそれでいいじゃない。喋れなくてもいいから、喋れればいいなぁと思ってさえいれば。それさえも思えないのは、思えない人間が怠惰だからじゃあ決してないと思う。不幸
 文科省奥義「受験に必要」がスピーキングでは使えない以上、文科省にできることは必要性を感じる機会を増やしてやること、英語が導いてくれる世界に憧れさせることだと思う。教員試験のペーパーテストなんぞ適当でいいから、海外で面白い経験をしている人間を注意深く選んで英語教師にする。後は彼らが子供らに海外への夢を与えてくれればいいんじゃないの?


 どうせ現実の前に形骸化されるんだと思う。けど、なんだろうねぇ。なんでこうツッコミどころ満載のことを一応賢い役人方が言い放ったんだろう。議論の呼び水なのかなぁ



 ……と、そろそろ頭の中が煮詰まってきたのでブログで探すと、こんなのが
http://kisakitoru.blog119.fc2.com/blog-entry-277.html

学生は、外国人教師が「英語による英語の授業」をすることは当たり前のように思っているようですが、日本人教師が「英語による英語の授業」をすることは当たり前のように思っていないのです。そのため、英語で授業をしていて時々感じるのは、「なんで日本語を使ってくれないんだ」、「ちょっとくらい日本語で説明してくれてもいいじゃない」という視線。外国人教師に対しては、あまり発生しないものです。

最初の頃は頑なに英語だけにしていたのですが、最近は日本語も使っています(T大学、A大学では問題なし、R大学ではルール違反)。「なんで日本語を使わない・・・」とか「ちょっとくらい日本語を・・・」という学生のイライラをきっかけに、教員と学生の関係がぎこちなくなります(仲が悪いとかではなく)。関係がぎこちなくなれば、授業は思うようにはいかなくなります。授業が思うようにいかなければ、関係はもっとぎこちなくなります。悪循環。

 自分の抱いた感情を教師側から俯瞰したようなこと。やれやれ。感情的になっていたようですね……

http://aramahosi.cocolog-nifty.com/asaborake/2008/12/post-c513.html
 自分のソースだった読売の記事だけでは書いていない、専門家の言とかも触れてる


そういえば404の子飼弾氏や、梅田望夫氏が賛嘆してて、ネットでも評判の本だけど

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

こんなのもあった。読んでみたらちょっと何か分かるかもしれないか



 「関係代名詞を英語で説明できる教師が何人いるやら」とか心配している人がいくらかいたけど、それはまぁ、どうせ日本語でやるしかないから放置ですよねー


 まぁいいや。意外と時間を使いまくってしまった