日本史撤回
やりました。でもクオリティは低いです。解答消して再利用してくださいな
<北家台頭>
初代蔵人頭で北家台頭の魁となった人物は?→冬嗣
人臣初の摂政となったのは?→良房
彼が842年に伴健岑、橘逸勢を失脚させた事件は?→承和の変
866年に伴善夫を失脚させた事件は?→応天門の変
初めて関白になったのは?→基経
彼は888年に宇多天皇から送られた称号が気が食わずサボタージュした。その称号とは?→阿衡
菅原道真が仕えた天皇を順番に二人答えよ→宇多、醍醐
両天皇の治世は親政で、それぞれ「○○の治」と呼ばれる。何か?→寛平、延喜
両天皇に左大臣として仕え、時の右大臣・菅原道真を大宰府に左遷した人物は?→時平
菅原道真が重用された背景には唐風の高い教養を政治家に重んじる思想があった。何と呼ばれるか→文章経国思想
後者の天皇による勅撰和歌集は何か→古今和歌集
安和の変について次の物から間違った選択肢を選びなさい→A
A.当時の摂政は藤原忠平である
B.以後藤原家の独裁的地位が確立し、摂関が常置されるようになった
C.起こった年は969年である
D.左遷された源高明は醍醐天皇の息子である
唐が滅亡したのは何年のことか?→907年
唐衰退の契機となった内乱の名前は?→安史の乱
新羅、渤海はそれぞれなんという国に代わったか→高麗、遼
935年に坂東を中心に起こった大規模な反乱の首謀者は?→平将門
彼を討伐した藤原秀郷の役職名は?→押領使
939年瀬戸内海で起こった反乱の首謀者は?→藤原純友
彼を討伐した小野好古の役職は?→追捕使
上記二つの乱の結果としてふさわしくないものを選べ→B
A.武士の力を朝廷が認め、国衙や内裏の守備を担わせた
B.徴兵制が復活し、軍団の再編が行われた
C.桓武平氏など「兵の家」と呼ばれる軍事貴族が成立し始めた
<土地制度>
914年に書かれた戸籍制度の崩壊の証拠となる資料は?→意見封事十二箇条
902年に出された荘園整理令は?→延喜
荘園に与えられた租税免除権をなんと言うか→不輸の権
それを中央政府から与えられた荘園、国司から与えられた荘園をそれぞれなんというか→官省符荘、国免荘
田堵とは何か。30字前後で説明せよ→国司に耕作、租税納入を請け負わされ、名田をもった農民のこと。
田堵が成長して自ら土地を開墾し荘園を形成したものをなんというか→開発領主
当時の国司は二つのタイプがある。何か→遙任、受領
成功はなんと読むか。→じょうごう
国から税をむさぼりとって、それを中央政府に納めて国司に再任されることをなんというか→重任
当時の租税は租庸調とは呼ばれない。国司が農民から吸い上げる租税は何か。2つ記せ→官物、臨時雑役
本家、領家のうち、現地の荘園に対して実権を持っているものをなんというか→本所
不入の権とは誰を入れない権利か→検田使
成長した田堵の側にとって寄進によるメリットは主に何か?→収公されないこと
1069年の荘園整理令で作られた全国の荘園を管理する中央機関は?→記録荘園券契所
在庁官人とは何か。30字以内で答えよ→国司が現地採用し国衙を運営させる実務官僚のこと
<仏教変遷>
真言宗の開祖は?また主に彼を保護した天皇は?→空海、嵯峨天皇
両者に橘逸勢を加えた3人をなんと呼ぶか?→三筆
空海が与えられた京都の東寺は何と改称されたか→教王護国寺
天台宗の開祖は?また主に彼を保護した天皇は?→最澄、桓武天皇
天台宗の分派で比叡山を本家とする宗派の開祖は?また何派と呼か?→円仁、山門派
三井寺を本家とする宗派の開祖は?何派?→円珍、寺門派
真言、天台それぞれ密教だが、流派が違う。それぞれ記せ→東密、台密
旧来の山岳信仰と融合して生まれた新たな信仰の形は?→修験道
神仏習合の根拠となった理論は?→本地垂迹説
当時の寺院の代表に室生寺がある。その説明のうち誤っているものを記せ。→D
A.山を開く形で建設されており、山の中腹に堂塔が存在する
B.真言宗の一派の寺院である
C.室生寺の五重塔は法隆寺の次に古い
D.最古の寄木造の仏像である国宝・金剛釈迦如来像がある
末法は西暦何年からか?→1052年
その前年に完成した関白藤原頼通が「この世の極楽」をイメージして作らせた寺院を何と言うか?→平等院鳳凰堂
源信の著作として正しいものを次から選べ→B
A.入唐求法巡礼行記 B.往生要集 C.法華経
口から仏を連続で吐き出している像で有名な浄土宗の僧侶は?→空也
<摂関全盛>
村上天皇の親政期を何と言うか→天暦の治
「三舟の才」と呼ばれた藤原公任が作った漢詩文の本は?→和漢朗詠集
藤原明衡が作った国産漢詩文集は?→本朝文粋
当時の公卿の合議を何というか→陣定
藤原道長の外孫にあたる天皇を3人書け→三条、後朱雀、後一条
叙位、除目の権限はどの役職が担っていたか→摂関
当時の貴族らがやたらと日記を書いているのはなぜか?40字以内で記せ→政務の中心が年中行事(儀式)になり、その手はずを後世に伝える必要があったから。
藤原道長が就任していた摂関に類する権力を持っていた官職は?→内覧
国風文化の説明として間違っているのを以下から選べ→A
A.大和絵、蒔絵といった絵画技法が登場した
B.文学の中心が漢詩から和歌へ移行しつつあった
C.一条天皇後宮を代表とするかな文学が隆盛した
D.宮中の衣服が衣冠束帯などの和風なものになっていった
E.寝殿造の住居が増えた