等身大 ver1.1

http://blog.tatsuru.com/2008/11/11_1120.php
 反射的知ったかぶりが結構身についてしまっていたりするので、結構恐ろしい
 読んだ本の話とか反射的に知ったかしてしまったり。漫画とかもそうだな。「知らないことは語れない」当たり前のことだけど、子供っぽい意地が気づかないうちに出てしまい、恥じ入る。んで、一度出たそれを引き返すのも恥ずかしいから「…あ、うん、へぇ。そういやそんな話だったよな」なんて気まずい顔で言う羽目になる

以下引用部分

「自分の賢さ」をショウオフすることよりも、「自分の愚かさ」の成り立ちを公開することの方が、世界の成り立ちや人間のありようを知る上ではずっと有用だと私は思っている。

日本のインテリゲンチャたちの圧倒的多数が「自分の知性の限界や不調を主題化する作業からはほとんど反射的に目をそらす」という事実を開示してくれている


 自分は全然大人でもなんでもないし、大した人間でもない(事実勉強しなきゃと思いつつこうしてブログを書いてるわけで)
「等身大の自分」って言うとスイーツ(笑)な芳香が漂うが、自分を卑下も背伸びもすることなく、生きていけるのはすごく清々しくて、気持ちいい生き方だと思う。開き直りや、現状に甘んじるためのアピールではない


花の慶次」が好きで、前田慶次郎の生き様に憧れているのは、そういうところなのだろう。慶次は丸腰の心で、何の羞恥もなく、底抜けに開放的に生きている。それでいて堕落も放蕩もせず、自然に高潔さを維持している
 大げさな理想を掲げることもなく、口角に泡を飛ばして弁ずることもない。奔放な自由人として作中の誰よりも晴れやかに生を謳歌している慶次。権力も暴力も卑劣な悪も、慶次の粋な生き様を挫くことはできない。しがらみに囚われない「傾奇者」の生き方は、真似できないからこそ痛快なんだろう
 彼の魅力が何なのか、まだ僕には言語化できない。きっとできる日が来るだろうけれど。とりあえず宣伝しておく。ぺたっ

花の慶次―雲のかなたに (第1巻) (Tokuma comics)

花の慶次―雲のかなたに (第1巻) (Tokuma comics)


 一方で、話は変わるけど、「荒野の七人」。7人のガンマンが色々な縁で集まって悪党に悩まされる農村を救う、そんな西部劇の古典的名作(普通に見ても役者揃いで、爽快な面白い映画)
 で、そこにガンマンの一人のとこに村の子供が自分をつれていってくれみたいなことを頼みにくるシーンがあります。ガンマンが理由を聞くと「ここにいたくない。父さんたち卑怯だから」と言う
ガンマンはその子供を抱え上げて尻をペンペン叩いて、説教する
「父親のことを、二度と卑怯だなんて言うな。俺みたいに銃を持たなくても、責任感のある勇敢な人だ。家族全員を守っている。親父たちは、みんな、重い責任を背負って、墓に入るまで、それを守り続けているんだ。人に言われてやるんじゃない。お前たちを愛しているからだ。
俺に、そんな勇気はない。
毎日畑でラバのように汗水流して働くことこそ、本物の勇気だ。俺には、まだそこまで踏み切る度胸も勇気もない」
 荒野の七人がただのドンパチ西部劇じゃないのは、一貫して、ドンパチやった七人のガンマンが勝利者なのではなく、悪党と戦い続け、七人を雇って農民たちこそが勝利者なのだ、ってメッセージがあるからじゃないかな、とか。まぁ親に言われて気づいたシーンだけど

 何が言いたいかって言うと、いわば傾奇者的な生き方をしているガンマンが、このセリフを語る、そこがすごく驚きで、感動したということ。強靭なバイタリティで、自由奔放に生きるってのに、子供は誰もが憧れるけれど、きっとそれは生き方の一つにすぎなくて……
 庶民的なものを何かどこか軽んじてしまうけれど、こういう見方もある
 結局はみんな、精一杯生きてる。自分の目の前のものに真摯に、誠実なことは、その対象のスケールとかそんなの問わずに素晴らしいことなんだろうな。頑張らなきゃ



 自分の無知を何の衒いもなく認められる、それはきっと様々な弱さを克服して初めてできることなんだろう。比較的博識だという弱々しい自負で身体を支えている僕にとって、何かを知らないと思い知ることは杖を足で蹴られるようなものなのかもしれない
 知識高校生を気取るような部分を、自分であざ笑っているというちぐはぐな状態が今の自分だろうか
 人は意識したくないものを「抑圧」して、無意識に必死で突っ込もうとするらしい。自分を安定させるための防衛機制。「自分の愚かさ」なんてのに始終向かい合ってたら精神疲れきるもんな
 その無意識の沼に押し込んだはずのものが、ふとした拍子に出てくると、反射的にまたそれを突っ込みなおそうとする行動が出てくるのだろう。自分で分かっているけど、意識したくない「愚かさ」、それが浮き彫りになって眼前に飛び出してくる。んで、知ったかかますことで反射的にまた沼に叩き込もうとする

 僕もきっと、色んなものを気づかないままに、無意識の中にぐいぐい押し込んで、知らんふりしてんのだろうな。そういうのを自力であれこれドブ攫いしてくるのも、結構刺激的な作業ではある

 無意識下に弱みを色々突っ込んでると、なんかそこをほじくり返されないように、いろんなものを着込んで、心を防御しようという風になってくんだろうか
 自分の精神が自分に対しても隠し事をしている。ありのままの自分ってのは、自分でも分からないものだろうな。だからこそ、慶次のようなあり方は真似できないんだろう

 眠い。寝る