今更ながら日本史解答

1.平城京時代
(1)710 (2)和同開珎 (3)702 (4)文武 (5)長屋王 (6)光明子 (7)橘諸兄 (8)吉備真備 (9)玄纊 (10)藤原広嗣 (11)藤原仲麻呂 (12)淳仁 (13)恵美押勝 (14)道鏡 (15)称徳天皇 (16)宇佐八幡 (17)光仁
問1 A.せんとくん B.そのまんま東 C.ピーポくん D.ドアラ
問2①長安 ②630年 ③宮城が真ん中→北、条里制→条坊制、宮と京の更なる分離・京の拡大
問3 武智麻呂――南家(ガチムチみなみけ仲麻呂で散華) 房前――北家(冬嗣、良房で摂政、道長に至る) 宇合――式家(しっけ。実際シケてる。広嗣、クスコ、仲成と反乱の日陰一族) 麻呂――京家(何も無さ過ぎて死にそう)
問4 D(大津宮は天智時代ですね)
問5
①(1)D(2)C(3)A(仏教興隆の詔は持統天皇
行基。良弁とかもいるよ!
③金光明経
④鑑真。唐招提寺戒壇東大寺戒壇院四天王像とか有名)
問6
①743年(「なにさ(723)結局国のもの」で三世一身法。その20年後と覚えている)
②1万平方km。兵庫県サイズ。ぷぎゃー
③既存の灌漑を利用すると私有は一代限りとうまみがない。国のものになる頃には荒れ果てているオチ
貧窮問答歌山上憶良(実は遣唐使やったりしてるエリートです)

2.平安朝時代
(1)桓武 (2)藤原種継 (3の1個目)早良親王(おいしそうですね) (3の2個目)これはりのあざまろ。ダルイのでパス (4)坂上田村麻呂 (5)阿弖流為 (6)藤原緒嗣 (7)天下徳政相論 (8)健児 (9)勘解由使 (10)公営田 (11)元慶官田 (12)諸司田 (13)平城 (14)藤原薬子 (15)藤原仲成 (16)嵯峨 (17)蔵人 (18)検非違使 (19)弘仁格式
問1 仏教勢力からの逃避、皇統変更に伴う人心一新、自分の母方・渡来人の根拠地へ行く、水陸交通が便利、風水最高など
問2
①女子は庸調雑徭が免除された上、口分田も3分の2もらえるため、偽籍した奴が多い
②公出挙や運脚などの重負担の中、余裕の無い農民は没落し、余裕のある農民から私出挙などの形で借金し、返済できなくなって土地を失い、貸し手は更に繁栄する。恒例
問3 公出挙の利率が5割から3割へ、雑徭が60日から30日へ、班田周期を6年から12年へ
問4 受領への権力集中について書けばよい。班田収授体制の崩壊と共に中央への税が滞り始める。国司律令を外れてもなりふり構わず税をとるという風潮になっていき、郡司の伝統的権力は失われていった(元々は国造などの豪族で、彼らは伝統的に世襲。最初に律令体制を作ったときには大きな役割を果たしたんですよね)


その他かいてなかったこと

天平文化』@平城京 聖武天皇
<特徴>
鎮護国家仏教全盛
・国際色豊か。正倉院の宝物とか見れば分かる
<書籍>
古事記太安万侶稗田阿礼の話を聞いて作った。記紀とあわせて権威の定義づけ)
日本書紀(720年、舎人親王編。舎人親王淳仁天皇の親父)
風土記元明天皇の勅令で編纂。出雲国のはほぼ完全な形で現存。地誌)
懐風藻(ねらい目?現存最古の漢詩集)
万葉集大伴家持。770年ごろ成立)
<国家仏教>
南都六宗南都七大寺。内容までは聞かれないでしょうけど
政権の中枢を担った玄纊、大仏作った行基、鑑真は必須
光明皇后は非常に仏教帰依が篤い。聖武天皇の仏教熱も彼女の影響。悲田院(孤児、病人を収容)、施薬院(医療施設)などを作って社会福祉にも熱心だった
<建築物>
法隆寺唐招提寺東大寺正倉院はメジャー。法隆寺の年代とかミソかも


『対蝦夷
ちなみに薩摩の連中は「隼人」という
陸奥鎮守府という言葉ぐらいは覚えとく。多賀城にあったのが、田村の活躍で胆沢城(いざわ)まで北上している
最北端は志波城。ここまでは出ないでしょうけど
田村の出陣は797年。泣くな田村!
阿弖流為が降伏するのが802年。805年に徳政相論で蝦夷討伐が打ち切られた