おえたろ根性

父に「若い間はあれこれ何でも批評して、他人に干渉したくなるけれど、本当に他人に干渉するのはその人の人生の責任の片棒を担ぐだけの勇気がいることだ」と教わった
俺に誰かに助言だのなんだのするだけの資格はないのは知っている。ただそれを他人に言うことで、その人の助けになるならとてもいいことだと思っているし、必死で書いているうちに記憶にも定着するんじゃないかと信じている
けれど、そんな言い訳をしながら、結局相手を「教わる側」として、下に見る気持ちがあったのは否定できない。ごめんねカルテ
「情報の共有」という一種の理想状態を志向してはいたが、そこには「共有する主体の対等な関係」がなくては理想ではない。日記にコメントして助言、みたいな関係には、どうしても「与える側と受ける側」という差、傾斜が生まれてしまう。いくら理論武装していても、感情は正直だ。逃げられない

だからこそ大人は喋らないのだろう。後ろを向いては舌を出し、たわいない話で乗り切り、本当に人を選んで言葉をかけている。父に「言葉の重み」というものを考えさせられた


僕の言葉には重みが無いだろう。裏づけが無いのだから。そして責任を取るほどの担保もないし、覚悟も無い。説得力を高めるために僕が出来ることは理路を正すことぐらいだったけれど、それは何か典型的な「薄弱インテリ」ではなかったか
今後、こういうことをブログに書くのさえ気が引けてきた。プライベートな日記でも作るべきなのかな……。自分が保障できないことは語っちゃいけない、そんな基本を、長い間、卑しい快楽のために忘れていた気がしてならない