違和感

電車に座って本を読んでいて、ふと視線を上げる
対面の席には人が座り、それぞれに違う姿・顔をしている
それぞれが違うことを考えている。違う歴史を持っている。違う意識を持っている
それを思うといつも、なんとなく不思議な気持ちになる。彼らには自分と同じような「人格」があり、人生があり、それぞれにあれこれ悩み、考え、辛い思いもし、楽しい思いもし、自分の心を持って生きている

今ひとつ突き詰めて考えることができないし、そういう時間はないのだけど、何だろうか、「自分」と「他人」を何が分けているのか、知りたいという気持ちがある。背中に引っかかった髪の毛のような感触……とでも言えるだろうか


他人とか社会って、僕にとってどこまで重要なんだろうか?また4ヶ月前の感覚が戻ってきている。あまりにも不毛だけれど、そういう不毛な性も愛おしい自分自身であり、捨てきる覚悟が出来ない
けれど、そういった外界との壁を意識することで、自分という砦に閉じこもっていても、何も解決しないと、そう思う
葛藤がある限り、僕は僕自身が考えたことにさえ確信を持てないのではないだろうか?僕の文章はいつみても断定を避けている。他人が何かを断定しているのを見るとき、僕はいつも何かひやっとする。それは「なんて危なっかしい真似を」という心配でもあり、自分の背筋を指でなぞられる寒気でもある
扶養されている子供の自分は社会を何も知らず、というか経験として知らない。「労働」も自分にとっては観念にすぎず、血肉が伴わない言葉のようだ
とはいえ「少しでも効果的に」とか思ってる限り、僕はいつまでも足踏みを続けるしかない。完璧が出来なくても、中途半端であったとしても、まだ見つからない最後のピースを残して完成させておく、そんなこと

完璧に出来る条件が揃ってから始めるのでは遅すぎるし、そもそも僕が条件さえ揃えば完璧にできるという保証はない。希望的観測にすぎない

自分の潜在的価値まで疑いだしたらもう駄目だ。前を向き続けなくては。目の前がぼやけていようと。そうしていない限り、理想の自分になんて、近づけないのだから。けど夜になると、疲れていると、「本当に僕はなれるんだろうか」と、薄暗い囁きが湧いてくる。自分の力で、この温かい泥の中から、抜け出せるのか、疑念が湧く

耳を貸さなければ、いいんだよな。しがみつくものは心の中にあるんだから。自分を嫌になっても仕方がない。自分なんだし


仕方が無い、がたくさん出てきてげんなりしても、仕方が無いものは仕方が無いんだ!