信じること

何事にも自覚的たれ、が俺の内心のスローガンなのかもしれん。自覚して対処する力が足りないけど……

テストにでてた漱石の『門』の宗助さんに重なる部分がある。彼の「宗教」を「通義的な青春」に置き換えれば構図は完成。青春の熱狂を求めちゃいるが、自覚と分別が興を醒ましている
今の自分の意志力の弱さが、部活に情熱的に打ち込んでいたら解決していたかも?みたいな安直な期待だろうか。まぁでも実際、今の俺にも入学時の俺にも、情熱的な青春は似合わない気がする

宗助さんは、鈍感な善男善女が宗教に縋りつくだけで、心の平安を得ている姿に憧れているのかな。信仰という型にはまることで、自分を単純なものにして、あれこれと様々に考えて思い悩むのをやめたいのかも
「疑問」がわくのは止められない。言葉の誤差であれ何であれ。一度疑念がわいたら戦うしかない。それを言葉にして、飲み込める分別があるのは能力ではあるが、それがあるゆえに戦わざるをえない
分別のある、考えうる、また考えずにはいられない人間は損なのかもしれない。宗教に身を投げることが、考えからの逃避だと思ってしまえば、分別はそれを許してくれない
どんな巨大なものにも、徒手空拳で立ち向かい続けるしかない。疲れ果てるまで、もがき、手足が砕けるまで戦わないと自分が許せなくなるから?

とりあえず疲れる生き方だ。宗助さんは多分心が砕けるまで、悩み戦い続けるしかないのだろう。門番が憐れむほど弱りきった時に、門は開いて、シンプルでピュアな安らぎが訪れるのかなぁ……

まだ俺は自分自身のことしか、そういう戦いはないけど。でもまぁとにかく、自分の感情や行動に、とにかく筋を立てていくことが、何かに結びつくかもしれない。と、期待してはいる

でも、もう少し考えないでいいことまで考えてしまう癖をどうにかしないと、生きづらいのかもなぁ