デスティネ

 destinationに導くのがdestinyと考えると、前者は目的地というより終着点って訳す方がよくも思えるが、そこは文脈か


 最近は本とPCと日記が生活の中心になってきてる。直接的な勉強ができてないと、試験期間に泡噴く羽目になるからもう少し頑張らなきゃならんのだが
 運命的に遅刻した河合の総合テストはギリギリ平均に乗っけた。リスニングの出来てなさに人生感じたが、とりあえず70キープを目指そう、うん


 俺は俺の当座の終着点(文I)を目指してやっていけばいいだけで、誰かに競争意識を持って、劣等感に苦しむのは無意味とは分かってはいる。が、なぜだろうか、やはり点が劣るのは苦しく悔しい。何となく癪なのもあって、色々考えてみることにした


 学校や塾が多人数に同じ試験を受けさせるのは入試の形式がそうだからってのもある。しかし「最終的な合格」という長期的な視野をもって取り組むべき問題に対し、目先の良し悪ししか見れない人間が、勉強の目的を勘違いしたままでも「目標に必要な力」を身につけられるようなシステムだろう。あとは継続的にも(少なくとも断続的に)勉強することでまぁ総合学力を高めるためか。試験無いと勉強しないし(そういうもんでもないが)
 とりあえず問題は受験を通るという最終目的をベースに考えてみる

 受験は競争ではない。敵はどこにもいない。相手(学校)に自分を認めさせるのが究極目標で、その価値判断の基準として入試がある。推薦でもAOでも縁故でも裏口でも、「入学を認めた」というのが終着。終着にたどり着くには、多くのアプローチがある。裏口入学費用を稼ぐため、トレーディングに勤しむのも別ルート。1日中野球して推薦枠取りに行くのも別ルートではある。まぁ俺にとっては入試を正面突破すんのが一番手っ取り早いのに変わりはない

 入試を突破するためにはそれだけの実力をつければいい。高校の卒業認定も必要だが。卒業さえできれば、学校や予備校でテスト受ける必要はない。裸の大将みたいに諸国漫遊して、旅先で勉強してても、受かれば何の問題もない(まぁ当たり前に学校に行くのは社会的な観点で見れば必要なことではあるが)
 定期テストや模試での点や順位は目安にすぎない。学校や塾の蓄積したデータに基づいて合格ラインと自分の力の差を計るための機会。個人対受験と考えた時、意味はそれだけだ。特に予備校のは
 そこでの成果にどういう意味を追加するかは個人的なものだ(ex.対親、対ライバル、自己鍛錬)それが刺激になれば構わないが、自分の学力を高めるということだけ考えるなら、そういう意味を抱くのはある意味ズレている
 ここを勘違いしてる奴がカンニングとか試験情報漏らしとかしちゃうわけだ。正確な自己評価が出力されないで困るのは自分だ(ただし当人は自分が気づかないけど)
 他人がカンニングしたことに憤慨するのも一種ズレている(対受験的ではない)黙って冷笑すべき、やった奴が友人なら窘めるに収めるべきだろう


 人間は差しか実感できない。6800万フェムトニュートンとか言うのは実感として湧かない。そこに○○する力の約××倍みたいな比、差があって初めて実感できる。この前の現代文(ぞうの時間ねずみの時間?)に似てるけど
 自分と身近な人間との明確な差は、合格ラインと自分の差よりもはるかに現実感がある。現実感があればあるほどモチベーションにしやすい。しかし、下手をするとそれが目標とすり替わってしまい、本来の終着点を見失ってしまう。ただその卑近すぎる目標は、大体合格と同じ方向にあるで、それを追い続けても上手く行くようにできている。

 まぁ負けたのが悔しいのは当たり前で、解けないのが歯がゆいのも当たり前で。当たり前のことが当たり前に出来てこそ、マトモに世の中でやっていけるのだろう。学校の意味は何も受験だけじゃーない(予備校の話と考えればすっきりするのかもしれない)

 まーとりあえず、マイペースに勉強しないとなってぐらいなんだが……