日本史問題作るか

 id:semi-graphが日本史を捨てるらしいので、選択者の俺が作ってみようかと

天保の改革で老中(   )が行っていない政策を以下のうちから選べ
A.大阪周辺などの要所を大名から召し上げ、幕府の天領にしようとして失敗した
B.江戸の景気を回復するため五品江戸廻送令を出して商品を江戸に集めようとして失敗した
C.都市の貧民問題を解決するため、農民をそれぞれの故郷へ帰そうとして失敗した
D.物価高騰をおさえるため、株仲間を解散させた

1837年漂流民を届けに来たアメリカ船を打ち払った事件の名前は
またそれを批判した高野長英らを弾圧した一連のことを何と言うか

1842年(   戦争)で清が敗北し、欧米の戦闘力を知った幕府は(   )をとりやめ、(   )をやった

1848年カリフォルニアで金鉱が発見されたこと(    )で西部開発が加速し、アメリカは急速に太平洋へと進出した。日本はアメリカにとって(  )や(  )の中継点に適していたため、アメリカは(  )年にペリーを(  )に来航させ、翌年(    条約)を締結させた。このときの日本の老中は(   )である。この条約は( )と( )の開港、領事の駐在、一方的な(    )を日本に押し付ける不平等条約だった。

1856年、清が(  戦争)でボコボコにされた。アメリカの初代日本総領事であった(  )はこのことから欧州列強の危険性を説き、(     条約)を日本に結ばせた。この時の日本の大老は(  )である。
この条約は
・( )( )( )( )の開港と( )( )の開市
自由貿易
アメリカの(   )を認める
・日本の(   )を認めない
という前の条約に輪をかけた不平等条約であり、攘夷論者であった(  天皇)は憤慨して勅許を与えなかった。しかし大老(  )はこれを断行し、吉田松陰などの批判者を弾圧した。これは(   )と呼ばれる。しかしその大老1860年の(    )で暗殺された。またこれと大体同じ条約が(  )(  )(  )(  )の間とも結ばれることになった。

条約以降の自由貿易により、欧米各国の安価・良質の(  )が日本に流入。日本の農家は大打撃を受けた。また( )が大量に輸出され品薄になったため物価が高騰。民衆は貿易での損害に怒り、(   論)が流行することになった
また様々な港が開かれたことで、これまで流通の中心だった江戸に商品がやってこなくなり、江戸は不況にあえいだ。幕府は(    令)を出してこれを防ごうとするも、効果は無かった
加えて日本と欧米の通貨レートが違うことが原因で大量の( )が流出。幕府は(  小判)を発行して対抗したが、物価上昇に拍車をかける結果になった

同じ時期病弱な13代将軍(  )の跡継ぎを巡って幕府内では(    問題)が激化。改革を志向し、雄藩の幕政参加を狙い、後継者に(   )を立てる(  派)と保守的で幕閣専制の維持を狙い、(   )を立てる(  派)が衝突。最終的には(  派)が勝利した

もはや幕府単体では日本の維持は不可能と思い始めた幕府は、公武合体をめざし、天皇の妹( )を将軍の妻とすることに成功した。しかしこの政略結婚は尊攘派の反発を招き、1862年(    )が起こった。襲撃された老中(   )は負傷し一線を退くことになった。これ以降上層部は公武+雄藩による幕政改革を目指した(その結果一橋派が復権していった)
しかし下級武士や下級公家を中心に排外的尊攘論が過熱。朝廷と(  藩)の圧力に屈した幕府は攘夷を約束することになった。しかし1863年薩摩藩が(  戦争)でボコボコにされ、ガイジンの力を思い知ると翌月京都で(     )が勃発。長州藩尊攘派が京都から追放された。翌年池田屋事件を口実に長州藩は京都へ進出しようとしたが、(   )で敗北。さらに朝廷・幕府連合軍による(    )、英蘭仏米の四国艦隊による砲撃で(  )が壊滅したことなどを受け、攘夷運動は挫折した。

1866年ガイジンにやられた経験を持つもの同士、長州藩薩摩藩が(   )の仲介で秘密裏に軍事同盟を結び、(   )が誕生した。この結果長州は薩摩経由でイギリスの武器を入手し、軍隊の近代化に成功した。幕府は再び(    )を計画するも、薩摩が重い腰を上げないため足踏みせざるを得ず、結局長州藩に敗北した。またこの年、過激な倒幕を望んでいなかった(  天皇)が急死し、公武合体論者は大きな痛手を負うことになった。

1867年以降、全国で「○○○○○○○」と連呼しつつ街道を埋め尽くして民衆が踊り狂うよく分からん行動が流行。これで街道が封鎖されたことも幕府に軍事面でダメージを与えた

1867年10月14日、倒幕を望まなかった(  藩)の提案で幕府は倒幕派の機先を制すべく(   )を行い、徳川中心の連合政治(   )を作ろうとした。これを受けて薩長倒幕派は12月9日に政変を起こし、(      )を発して新政府から徳川家を排除。(  戦争)の始まりである。翌年1月、(    の戦い)で新政府軍は旧幕府軍に快勝。徳川慶喜は大阪を逃げ出し、幕府軍の屋台骨は早くも揺らぎはじめる。4月には江戸城無血開城され、その後も会津藩中心の(    同盟)、(    )に立てこもっていた榎本武揚らを降伏させ、1869年5月に(  戦争)は終結した

1869年新政府は各藩に(   )を行わせた。これにより旧来の藩主は(  )とされ、形式上は中央集権化が進んだが、実際はまぁ変わらなかった。そして2年後、政府は事前に(   )を備えて(    )を断行。旧藩主を解任して(  )として東京に集住させた。当初政府は大きな混乱を予想していたが、地方財政の苦しさなどから中央集権化を喜ぶ声もあり、スムーズに進んだ

武士は(  )とされたが、1873年の徴兵令、その後の廃刀令、(   )などで有名無実化。彼らの不満を海外に向けるため(  論)が起こり、一時はそれが通りかけたが、欧州から帰ってきた木戸、大久保との論争の末敗れ、西郷、板垣、江藤らは下野。西郷は1877年(   )を起こして死亡。板垣は(    運動)に身を投じ、江藤は74年の(   )で戦死した。この一連の出来事を(     )ともいう

1871〜73年、(    )を団長とする使節団が欧米を視察。一方(   )では上記の(  論)が強まるも、一足先に帰国した大久保・木戸らの(  論)が勝利した。
しかし武力かどうかはともかく、韓国をどうにか開国させたいという気持ちは一致したものだった。そこで1871年日本は韓国の宗主国である中国と(    )を締結(日本が初めて結んだ対等条約だ)し、布石を打つと1875年には(   事件)を起こして朝鮮を威嚇。翌年(    )を結んだ(不平等条約)。また1875年にはロシアと(      条約)を締結。微妙だった北方の国境を明確にすると、1879年には(   )で「沖縄県」を作り、日本の国境が定まっていった

不平等条約の改正、それが政府の最大の目標であり、そのためにはガイジンになめられない国力を身につけ、不羈独立した文明国としてみなされなければいけない。そのため政府は(    )政策をとり、殖産興業を推し進めた。外国人技術者(通称(     ))の技術を得て、(  )製糸場などの官営模範工場を設立し、1873年以降は三井三菱住友など(  )を中心に民業育成を進めた。日本は急速に近代化し、これは文明開化とも言われた。

技術と同じくして西洋の学問・思想・宗教も日本に急速に普及していく。権利・自由・個人の自立などを主張する(  主義)が流行し、中村正直の(    )や福沢諭吉の(    )といった本がベストセラーとなった。一方で政府は(    令)を出して日本伝統のごった煮宗教を整理しようとした。しかしこれを取り違えた一部の人々が(    運動)を起こし、仏教の貴重な文化を踏みにじった。当時はそういった古い文化を軽視する風潮が強く、この時期に途絶えてしまった文化も数多いという。また政府は2/11を(  )、11/3を(  )として祝祭日にした。当初明治政府は発足当初に出した(五     )に見られるようにキリスト教を禁じるなど旧幕府の教化政策を踏襲していたが、欧米諸国の反対もあって1873年以降キリスト教は黙認された

1874年、板垣退助が興した日本初の政党(    )が(        )を左院に提出。これが新聞に掲載されて波紋を呼び、自由民権運動の波が起こり始めた。板垣は同年土佐に(   )、翌年それをベースに大阪に本拠を移して(   )を結成した。1875年政府は(       )を発表、一方で讒謗律、新聞紙条例などを制定して運動の鎮静を図った。1878年(  法)で府県会が始まると、地主や豪農地方自治に参加、運動は更に高まり、80年には(    )が結成された。これを受けた政府は(  条例)を出して弾圧した

1878年、新政府の事実上の指導者だった(    )が暗殺されると、政府内ではプロイセン流の王権の強い政治を志向する(    )とイギリス流の議会政治を志向する(    )の対立が表面化した。そんな1871年、当時の開拓使(   )が同郷の商人に異常な安価で政府備品を払い下げしようとしたことが発覚。これが(   )のリークではないかと疑われ、彼は政府を追放された。これを(      の政変)という。同年政府は(     )を出し、新政府は本格的に議会設立へ向けて動き始めた。民間では植木枝盛の(      )に代表される様々な(  憲法)が作られた。

M14政変で追放された(    )の後を継いで大蔵卿に就任した(    )は超がつくほどの(   )を行ったため、大幅なデフレが起こった。ちょうどこれが凶作と重なり農民はブチぎれて大規模な一揆を起こし、不況に喘いだ民衆の怒りは自由民権運動の暴発に繋がり、各地でテロまがいの事件が頻発。(  党)は一時解散する羽目になった

1886年から政府は伊藤博文を中心に閣僚の(   )、法学者の(    )(    )、(  )人の法律顧問が集まって憲法の草案を作り始める。1888年には伊藤が首相の座を(   )に譲り、(  院)議長として憲法草案を審議した。そして(  年 月 日)、大日本帝国憲法が発布された。詳しくは公民で

憲法を制定するためにはそれを支える様々な制度と機関が必要になる。政府は1884年貴族院のベースを作るべく、(  令)を出して華族を5つの爵位( )( )( )( )( )にわけ、それまでの華族に加えて新政府発足の上での功労者や、民権派・旧幕臣にも爵位を与えた。また1885年には内閣が整備されたが、国務大臣の多くが薩長出身であるなど、(  )主体だと批判された。また内閣からは宮内省が切り離され、このことを(     )という。1886年には国家を支えるエリート官僚の養成に向け(    令)が出された。ちなみに明治憲法には(   )選出の規定が無いため、慣例的に(  )が選んでいたり、枢密院は憲法施行後も(    )として残された

民権派は国会・臣民の権利が思ったよりもあったことや、発布に伴う大赦などでおおむね満足し、国会開設に向けて政党の活動は熱を増していった。また政府はフランス人法律顧問(    )を招いて六法の制定を行った。1880年には(   主義)に基づく刑法と、後の刑事訴訟法となる(  法)が制定され、1890年には民法、商法、刑事訴訟法民事訴訟法が制定された。しかし10年の時を経て法律のトレンドはフランス流からドイツ流に変わっていたためもあって、民法・商法は大いに反発を受けた。民法反対派の東大教授(   )は「民法出でて忠孝滅ぶ」という論文を発表して話題を呼んだ。結局民法・商法とも施行は延期され、民法は96〜98年にかけてドイツ法を基に修正され、(  )の権限が強い(「 」制度)が生まれた。99年には修正商法が施行された

1890年に衆院議員選挙法が出された。ここでは選挙権は直接国税を( 円)以上収めている、(満 才)以上の男子にしか認められず、結局選挙権を持つ人は総人口のわずか(  %)に過ぎなかった

国会開設〜日清戦争までの議会を初期議会と呼ぶ。(  )内閣の時、第一回総選挙が行われ、第一議会が始まった。第一議会で民党は(    )と(    )を主張し、議会はもめにもめるが、「議会を成功させねば外国になめられる」という考えは民党・吏党とも共通しており、なんとか妥協した。

(   )内閣の時に行われた第二議会では民党が(   )のための予算を否定。最後まで政府とは折りが合わず、解散・総選挙となった。その後の第二回総選挙では政府が死者が出るほど激しい(   )を行ったが、結局民党・吏党とも過半数はとれず、第三議会でも(   )費は予算から削除され、(   )首相は辞任した

埒があかないと見た当時の政権上層部は(「    」)で内閣を結成。第四議会に臨んだが、ここでも結局予算は否決され、天皇が(    )を出し、双方妥協することになった。第五・第六議会では民党は(    問題)を取り上げて政府を攻撃し、解散した。このまま議会がもめ続けるのは国益にならないと見た伊藤・陸奥は(  党)と協調路線をとり始める

1894〜95年、(  戦争)が起こり、その後(   )で日本はまたしても欧米にいじめられた。内閣と政党が協力して議会を円滑に進めるという手法は(    )内閣でも踏襲された。1896年(   )内閣は自由党・(    党)の両方と組んで大政権を作ろうと画策したが、両政党の協力が得られぬまま(  主義)路線で船出する。しかし(    案)が記録的大差で否決され、わずか6ヶ月で内閣は崩壊した。その後板垣と大隈が手を組んで(  党)を結成。初の政党内閣となる(  )内閣を結成するが、下部で足並みが揃わずわずか4ヶ月で自壊し、また分裂してしまった

1898年〜90年の(   )内閣は憲政党(板垣)の協力を得て地租増徴案を成立させるやいなや、(    令)の改正、(     制)で政党の力を排除しようとした。これに反発した憲政党は政党樹立を画策していた伊藤に合流。1900年(     )が成立した。この当時、薩摩の有力政治家が相次いで天に召され、幕閥は長州藩専制になっていた。その中で超然主義路線を主張する(    )と政党の意義を認める(    )は対立を深めていた

1873年に発布された徴兵令は免除規定が非常に多かったが、(  戦争)が眼前にちらつき始めた1889年に(「    」)の原則の下、免除規定を撤廃した。1878年の近衛兵の反逆(  事件)を受けて1882年には(    )が出され、軍人の守るべき徳目や、軍部の(    )が記された。しかし憲法天皇統帥権が独立した結果、軍隊の作戦・用兵に政府・議会が介入できなくなり、(2個前と同じ)とは裏腹に軍部の政治的発言力は非常に大きな物となった

1872年、国民皆学の原則の下(    )が行われた(初等教育を重視する福沢諭吉の教育論が大きく影響している)1890年には(    制)がしかれ、1900年その授業料が廃止されたことで、小学校の就学率は男女ともに90%を超えた。同年(    )が公表され、儀式の際(   )の前で必ず奉読することになった。(cf.(   )不敬事件)これ以降学校は国家意識・国民意識を形成する場いう位置づけになっていく。