金と人間性

母親と珍しく口論。「金銭的にも精神的にも余力があり頼られる人間になるべきだ」というのが主張らしいが、最初の方は「金は大事。自然な欲求として。なんで否定すんのかワケ分からない」と言う風な感じで困った。

さして痛切に物を欲しいと思ったことが無いので、金の重要性を痛感したことも無く、無くてもいい物を漫然と使いたいときに小出しで使ってる。

まぁそんなわけで金銭感覚が無いんですね。何でもできるのに惜しい惜しいと言われても、一定の金持ちがどれぐらいの年収でどれぐらい働いてて、どれだけあれば楽に暮らせるかとか全く知らないから、参考にしようがない。

しかも金儲けがどことなく後ろめたいっていう感情がどこかにある。結果個人的精神的充足だけを将来に求めていたわけですが、さてさて。

衣食足りて礼節を知るって謂うように、一定水準までは金があれば精神にゆとりも生まれるんでしょうけど。

 そもそも金は金、自分は自分なんだが、なんつーか、今ひとつ割り切れない。能力にふさわしい報酬を受けることの何が後ろめたいというのか。この比較的深い部分での嫌悪感の正体を見極めて整理しないと、お金に不遇な人生になるのやもしれません。

多くの宗教が蓄財を是としない(確かカルヴァン派は違ったな)のはなぜか。金が物欲の象徴だから?なら物欲を是としないのはなぜか。まぁ高度な精神次元に至る妨げだからか

それでも、腑に落ちない。ある意味この金銭忌避はほとんど信仰に近いのか。金そのものは無地無色で、使う人間の色に染まるだけとは知ってるのに、なぜ金銭と汚濁を切り離して意識できない理由がつかめない。